ひかり、あふれる
前篇
「楊ぜん。一つ頼みがあるんだ」
赤レンガ造りの小さな個人医院。つたの絡みついた外観はまるでクリスマスケーキに乗っている小さなウエハースのよう。その前で太乙真人はぱちんと手を合わせた。
「私に手を貸して欲しい。玉鼎。頼むよ。楊ぜんを貸してくれ」
楊ぜんはきょとんとしてこの医院の院長でもある玉鼎真人を見上げた。目の前の太乙真人は玉鼎真人が大学病院にいたころの後輩で、特に仲が良かったためか偶に夕食を一緒にとったりする。腕前についても玉鼎真人はかなり認めているようで、その太乙真人がわざわざ病院を休んでここまできて頭を下げるとなると何かそうとうのことだろうと予感させた。
しかし。
「ちょっとまて太乙、何で楊ぜんなんだ」
楊ぜんはただの看護婦でしかない。玉鼎真人の養女であることを除けばこれと云って特徴もないのである。
「ああ、つまり。もう私たちじゃ駄目なんだ。治療を受けようとしないんだよ」
「おまえの口車でも駄目なのか」
「なんだよそれは……。まったく。なまじっか頭がいいのが悪いんだ。病気に関する資料は完全に読んで――学術論文までだよ! ドイツ語の。普通読むか、素人が! ――それで、先生、わしの病気が治る見込みはほとんどない、だったら好きなように余生を過ごしたいんだ、と、こうだよ!」
身振り手振りで太乙真人はまくし立てた。忙しい男である。
「しかし、患者がそれを望むなら、私たちに出来ることは何もないだろう」
「そうじゃない。彼は治るさ、ちゃんと治療さえ受ければね。私の見立てだ!」
太乙真人は言い切った。相当な自信家ぶりだが玉鼎真人はそういう後輩が決して嫌いではない。苦笑しながらもこの男がそういうのなら、きっとそうなのだろうと頷いた。
「それで、何故楊ぜんがでてくるんだ」
「楊ぜんに彼を説得して欲しいんだ」
単刀直入に太乙真人は言った。
いきなり云われた楊ぜんは目を丸くして首を振った。
「そんな! 僕は難しい病気のことなんか、わかりません」
「ああ、そうじゃないんだよ楊ぜん。私はね、君に、彼に生きようという気にさせて欲しいんだよ。彼は魅力的な人物だ、実際天才だよ舌をまく。しかしね、生きようって気が全くないんだ。これじゃ助かるものも助からないよ。もったいないじゃないか、こんな悔しい気分は初めてだよ。協力して欲しい。頼むよ」
「だけれど、何で僕が」
目を丸くしたままの楊ぜんに太乙真人は笑いかけた。
「うん。なんていうかな。ああ、もう駄目かなって考えてるときにさ、浮かんだんだ君の顔が。ぴんと来たんだよ。君にならできるって。私のこういうカンは外れない」
而して。
楊ぜんは大きな小屋敷の前に半ば圧倒されて立っている。週二回だけの通いの看護婦。
「太乙様の莫迦。こんなお屋敷だなんて一言も云ってなかったじゃないか」
悪態つきながらも楊ぜんはインターフォンに手をのばす。
屋敷の中には本物の執事と本物の女中が控えていた。
通された部屋は二階の角部屋でがりがりに痩せた部屋の主は本と何かを書きとめた紙に埋もれながら紙飛行機を飛ばしていた。現実離れした光景に唖然としていた楊ぜんの足元にちょうど紙飛行機が着地する。よく見れば頭が痛くなりそうな計算式がびっしりと書かれていた。
「ほぉ、おぬしが太乙のよこした医者……ではないな。看護婦か。あやつめとうとうあきらめたな」
はっとして顔をあげるとにやりとした笑い顔と目があった。想像していたよりずっと若い。というより。
――子供じゃないか。
「あきらめてなんかいませんよ。さあ、さっさとベッドに入りなさい」
「添い寝でもしてくれるのか」
とたん、楊ぜんは真っ赤になる。この餓鬼!
かっかっかと子供は笑った。
「初心だのぉ〜」
「子供が大人をからかうものじゃありません!」
こういうことは始めが肝心だ。きっと楊ぜんは子供をにらみつけた。
「子供ではないよ」
「は?」
「子供ではない」
子供はくすっと笑った。莫迦にしたような表情。
「子供の頃に虐待されると成長が止まるのだ。おぬし看護婦の癖にそんなことも知らぬのか」
奇妙な罪悪感と少なからぬショックに楊ぜんは伺うように彼を見る。彼はけろっとした表情で笑った。
「まぁ、おぬしとは、1年くらいの付き合いになるだろう。当分わしは立って歩けるだろうが、そのあとのことは頼んだよ。やはり家政婦より看護婦の方が何かと良かろう。おぬしがそうしてもいいというならおぬしをそのまま雇い入れても良い。そうだ、おぬし名前は?」
「楊ぜんです。けど……」
「聞いていると思うがわしは太公望だ。せいぜい仲良くしよう」
太公望はそう言って手をのばす。
握った手は小さくかさかさに乾いていた。
「痛いから嫌だ? 5歳の子供でも我慢するのにあなた恥ずかしくないんですか!」
早速治療をはじめようとした楊ぜんは、初日にして点滴から逃げる太公望にさっそく癇癪を起こすことになる。
「云ったであろう。わしはどうせ一年しか持たぬ。だったら痛い思いをするのは嫌だといったのだ!」
「点滴の針なんて痛いうちに入りませんよ。それに、あなたの病気は治るんです! あなたさえその気になればね。太乙様は名医なんですよ!」
「ほぉ、おぬし太乙に惚れておるのか」
「何でそんな話が出てくるんですか!」
「看護婦と医者でちちくりあうとはヤラシイのぉ」
「最低!」
楊ぜんは腕をつかんで太公望を何とか押さえつける。相手は男とはいえ子供みたいな体格でそのうえ病で体力が極端に落ちているのだ、難しいことではない。
「嫌だと云っておろう! サディストめ!」
「おとなしくしなさい! 間違えてさしたらもっと痛いんだから」
「だああああっ。止めぬかっ」
針を腕にぴたりとテープで固定してから楊ぜんはにこりと笑った。
「僕注射とかって上手いんですよ」
知るかと太公望はふくれる。
「なんなのだ、これは」
ぶらぶらと点滴の管をゆすりながら太公望は尋ねた。
「ああ、×××ですよ」
「一般的な治療薬か。そんなもので治るとは思えぬよ」
「ええ、進行を遅らせるだけですね。今のところ」
楊ぜんは微笑んだ。
「あなたが長生きしようって気持ちになれば、あなたの病気を取り除いてくれます。病は気からって云うでしょう」
「ばかばかしい」
ぼそっと太公望は云った。
楊ぜんはふくれる。
「どうしてあなたはそうなんですか。人の体の生きようとするエネルギーは凄いんですよ」
「わしとしてはおぬしたちのほうが疑問だな。無駄に生きてどうするのだ」
「無駄に生きるってなんですか」
楊ぜんは形のいい眉をしかめる。
「文字通りの意味だよ。生きるために生きてそれでどうなる? それが楽しいか。空しくはないのか?」
「僕は生きていて楽しいですよ」
「何故」
「だって……」
楊ぜんはちょっと困って窓の外を眺める。そしてふわりと微笑んで続けた。
「だって、世界はこんなに綺麗ですから。風は優しいし、緑は綺麗だし、日は暖かいし、笑顔は優しいから」
太公望はじっと楊ぜんを見つめた。
「おぬしはなかなか面白い考え方をするのぉ」
それからにやりと笑う。サディスティックな微笑み。
「しかし、光化学スモッグで空は汚く、酸性雨は緑を枯らす、都会は喧騒に満ち、人は醜い」
楊ぜんは小さく唇をかんだ。
「あなたは世界の嫌なところばかり見てきたんですね」
「嫌なところも何も、これがすべてだよ」
楊ぜんは悲しそうに微笑んで太公望を見つめる。
「だったら。あなたはなおさら生きるべきです」
「わしにこれ以上醜い世界を見続けろというのか」
「いいえ。あなたは世界が美しいことに気がつくべきです。気がついて、そして美しい世界で生きるべきなんだ」
微笑む楊ぜんを太公望はにらみつけた。
「おぬしの偽善的な顔は嫌いだ」
どすんとベッドの上に上がりこむ。
「点滴は外さぬから。出て行ってくれ!」
「ブラヴォ! 楊ぜん、良くやったじゃないか!」
小さな、だけれどなかなか雰囲気のあるバーで、太乙真人はグラスを傾けた。
隣に小さく腰掛けた楊ぜんははぁとため息をつく。
「嫌われてしまいましたよ」
「そうかな。私は彼が君のこと気に入ったと思うんだけれど」
「僕の偽善的な顔が嫌いだそうですよ。そんな顔してるんですかね、僕」
ふくれて楊ぜんはため息をつく。
「気にしないことだよ。彼はああいう風にしか人と関われないんだから。一つ教えておくけど、彼、嫌いな奴とはそもそも話しもしないよ。完全無視。恐れ入るよ」
楊ぜんはきょとんとして顔をあげた。
「一体彼はどういう人なんですか」
「とある大物の私生児だよ」
楊ぜんは動きを止める。
「母親はアル中で事あるごとに彼に酷い折檻をした。彼の背中を見てごらん。凄いやけどの跡があるから。真っ赤に焼いた火箸で打たれたんだってさ。虐待のせいで15歳まで一言もしゃべれなかったらしい。12歳の春に母親を殺して――まぁ表向きは事故って事になってるけどね――施設へ。15歳で当時の数学教師が彼の才能に目をつけてね、留学を進めたんだ。それからは飛び級で3年間で大学院まで行って博士号もとってるはずだよ。凄いだろ」
「じゃあ、あのお屋敷は……」
「彼が建てたものさ」
楊ぜんはぎゅうっと自分の身体を抱きしめた。
「そんな……そんな人と、僕、どうやって……」
「変に同情することはない。そのままの君でいなよ。君がいいと思ったことをすればいい。それが一番いいんだから」
「でも」
言いよどんだ楊ぜんの頭を太乙真人は軽く撫ぜる。
「私が君を見込んだんだ。間違いはないさ」
楊ぜんはぱっと赤くなった。
「こんにちは」
2回目の訪問。控えめに云って楊ぜんは顔を覗かせる。
「この間は、ごめんなさい」
小さく、呟いてみる。
にやりと太公望は笑った。
「おぬし太乙に何か吹き込まれたな」
「いえ。あの……」
楊ぜんは口ごもる。
「可哀想なわしに免じて、つらい治療はしないでくれるか」
「つらいと思うほどの治療はまだしていません」
楊ぜんは顔をあげる。
「それに、やっぱりあなたは生きるべきだと思う」
「偽善者め」
にやりと太公望は笑う。
「良いか、楊ぜん。考え方と言うものは人の根幹にあるもので、人によって様々だ。生き方に関わるような問題で、自分の意見を他者に押し付けるなど、ましてそれを他者に強要するなど暴力に等しい。そうは思わぬか」
楊ぜんはちょっと言葉に詰まる。
「だけど……」
「おぬしが正しくてわしが間違っているとどうして言える? それはおぬしが考えたからそう云えるだけであろう? わしの理論ではおぬしは間違っておる。では、おぬしはなんと言うか。みんなが長生きしたいという。故に長生きしたいと思うことが正しいと、そう思うか? しかしだ、みんなとは誰だ? 正しいということはそういう事ではなかろう。最初はみんなが天動説を信じていた。ならば天動説は正しいのか? 正しいことは常に絶対的に正しい。誰がなんと言おうとだ。さらに言うならば正しい正しくないを判断できるのは計算で答えの出ることだけだ」
楊ぜんは必死に考える。理論武装の太公望に対抗するにはどうしたらいいだろう。
どうしたら、わかってもらえるのだろう。楊ぜんが云いたいことは理屈じゃない。世界は美しいのだ。それだけのためにでも生きる価値はあるのだ。
「正しいか、正しくないかなんて僕にはわかりません」
楊ぜんはゆっくりと口を開く。
「あなたの云うとおりですよ。正しいか正しくないかなんて、誰にも判断できないんだ。僕はあなたに生きるのが正しいと云いたいわけじゃない。ただ、世界の綺麗なところを全く見ずに死んでしまうなんて、あまりにも勿体無いって、そう云いたいだけなんだ」
太公望はやんわりと首を振った。
「それはできぬよ。聞いたのであろう、太乙から。わしの目はあまりに汚いものばかり見すぎて、もう綺麗なものなど写らぬのだ」
「そんなこと、ないですよ」
「あるよ、楊ぜん。わしの心の中はどす黒く真っ黒だ。おぬしなど見たらきっと逃げ出して二度とわしに近寄ろうとしないだろう。自分で覗き込んですら吐き気がする」
小さな沈黙の後、楊ぜんは云った。
「だからあなたは、死にたいんですか」
太公望は薄く笑う。
「そう。ご名答だ楊ぜん。わしは生きる気がないのではない。死にたいのだ。子供の頃からずっと考えておった。あの頃は逃避するために死にたかった。刃物を見れば手首を切り落とすことを考え、駅のホームでは列車に飛び込むタイミングを計っていた。現実から逃げ出す必要がなくなってもわしは、駅に立つといつのまにか飛び込むタイミングを計っているのだ。死にぞこなった。ずっとそう思っていた。殺したかったのは母ではなく自分だ。だが、理由がない。理由がなければわしは死ねない。だらだらと生きていたらこの病気だ。これだと思ったよ。わしはここで死ぬのだ。これが正しい運命だよ。おや、おかしいのぉ。わしが運命論など語るとは」
「そんな……」
楊ぜんは太公望から目をそらした。いつのまにか腕には鳥肌が立っていた。
「何もおぬしが泣くことはあるまい」
泣いているのか、自分は。気がついたら余計に涙がこぼれた。
「そうだ。教えてくれぬか楊ぜん」
太公望は指で楊ぜんの涙を拭う。その行為は思いのほか優しくて、楊ぜんは泣き崩れそうになる。
「おぬしの美しい瞳には世界はどう映る?」
next.
novel.
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