恋人ごっこ



子供のころ。
師匠が好きだった。
それはもう。大好きだった。
ただ純粋に好きだった。

ちょっと大きくなって。
師匠が特別な人になった。
大事な人だった。
僕は夢の中で、女みたいに師匠にしなだれかかった。
夢の中の師匠は僕に優しくしてくれたけれど。
現実の師匠はひどく困った顔をして。
僕を太乙様に預けたんだ。

     ☆

 そのころ。僕は師匠が僕のことを嫌っているのだと思っていた。
 だって、僕がアプローチしたとたんに師匠は僕を太乙様の元へ預けたのだもの。これはもう、厄介払いされたとしか思えない。それまで、師匠は僕に優しかったけれど、それは単純に僕がかわいらしいお子様だったからだけで。大人になって師匠を好きになった僕は、師匠にとって煩くよってくる仙界の女仙どもの一人とそう変わらなかったのだろう。これ以上一緒にいたら厄介なことになる――そのころ僕は具体的にその厄介な自体を想像していたわけではないのだけれど――そう思って僕を引き離そうとしたのだ。
 そう思い当たったとき、僕は打ちひしがれてかなり泣いた。
 泣き顔を太乙様に見せるのはゴメンだったから。与えられた小さな部屋で――そこはもともと物置だったのだけれど、散らかし屋の太乙様の洞府で、かろうじて生活できそうなスペースはそこくらいしかなかったから僕はその空間をもらったのだ――小さくうずくまって声を押し殺して泣いた。
 泣いて泣いて涙がかれて。僕が漸く小さな部屋から顔を出したとき、太乙様はまるでタイミングを計ったように甘い紅茶を入れて、にこりと笑ってこう言ったんだ。
「お茶をどう。楊ぜん。よかったら」
 僕にはそのとき太乙様が背高のっぽの黒尽くめの魔法使いみたいに見えた。
 魔法使いは僕が泣きはらした赤い眼をしているのを一切気にかけずに、洞府の裏にある蓮池が見える小さなテラスまで僕を連れて行った。
 夕日が池を照らし――ちょうど夕方だったのだ――真っ赤に染め上げるのを二人で黙って見つめながら。僕は隣にいる魔法使いはホントに魔法が使えるんだと思った。
 魔法使いのお茶は甘くて不思議とまた泣けてきた。
 結局僕は太乙様に泣き顔を見せてしまったことになるのだけれど、太乙様はからかいもせず黙ってそばにいてくれた。
 僕にはそれが嬉しかった。
 僕の小さな心は、きっとなぐさめにもやさしいことばにも耐えられなかったから。

     ☆

「僕は師匠にとって最低な弟子でした」
 あれはいつの日のことだったろう。僕は長いこと太乙様の洞府に預けられてから口を開かなかったから、一日や二日後のことではなかったはずだ。
 思えば太乙様は、僕が自分からしゃべりだすまでずっと黙って待っていてくれたということになる。必ず僕が自分からしゃべりだすと信じていてくれたことになる。そういう人なんだ。彼は。何でも心得ていて、何でも判っている。僕なんかあの人にとってただの子供でしかなかったのだろう。今だってそうなのかもしれない。
「どうしてそう思うの。楊ぜん」
 太乙様はゆっくりそういった。確かダイニングのテーブルに二人で向かい合って着いていたときで。そう、あの日も僕たちは紅茶を入れていた。そして、夕暮れだった。西日がまぶしくてちかちかした。
「師を好きになるなんて、弟子失格です。師匠に迷惑をかけたし、嫌な思いをさせました」
 紅茶も西日を反射して不思議な色合いをたたえていた。僕はそれをじっと見つめていた。相手の顔を見ながらしゃべれるような話題ではなかった。
「弟子失格とかそういうことはわからないけれど。少なくとも玉鼎は嫌な思いはしていないはずだ」
 そんなのは嘘だ。大人の言う都合のいい慰めに過ぎない。僕はかたくなにそう思った。素直になれなくて、相手の言うことを何でも斜めにとろうとしていた。
「嘘です。じゃあ、どうして師匠は僕を太乙様に預けたりなさったんですか」
「宝貝の修行のため……といっても君は信じないんだろうね」
 軽く太乙様は笑う。
「あまりみっともないことは言いたくはなかったんだけれどね。動転したんだよ玉鼎は」
 僕はぽかんとする。理解不能だった。あの師匠が動転するなんて。
「それに玉鼎は、頭が固いし、昔気質な考え方をするからね、男同士が……ああ、いや。なんでもない。わざわざ君に差別的な考え方を教えて、苦悩する材料をまた一つ増やしても仕方がないからね。ああ、でも。待て。やはり知っておいたほうがいいな。何も知らずに傷つくには君はあまりに繊細すぎる。ああ、ごめんよ」
 その言葉どおり何も知らなかった僕は太乙様の繊細と言う言葉に目を吊り上げていた。それはいかにも弱弱しくて、神経質そうでお世辞にも歓迎したい評価とは言いがたかった。
 だけれど今ならわかる。僕は確かに繊細だったし、もろかった。誰よりも。
「いいかい。楊ぜん。これは戯言であると同時に真実だ」
 太乙様は言った。
「男同士の恋愛は……否。同性同士の恋愛は不毛だと言う考え方がある。生物学的に言えばそのとおりだ。そこからは何も生まれない」
 僕はきっと不思議そうな目で太乙様を見ていた。僕はその言葉を半分も理解していなかった。
「だけれど楊ぜん。私たちは子孫を残すためのロボットじゃない。子供の生まれない夫婦は無意味か。そんなことはないだろう」
 何故そんなに当たり前のことをもったいぶってこの人は言うのだろう。僕はそのとき、この問題について深い嫌悪感を示す人や声高に否定する人がいることを知らなかったから、せいぜいそんなことを考えただけだった。僕は世間と言うものをまったく知らなかったし、自分に悪意を向ける人がいようとは考えもしなかった。
「ただ、少数派なだけさ。私たちは」

     ☆

「太乙様。どうしたら師匠を好きでいるのをやめられますか」
「どうしたんだい。楊ぜん。やめちゃうのかい?」
 翌日の朝。開口一番にそういった僕に太乙様はからかうように言った。
「はい。師匠を困らせたくありませんから」
「そうだね……。本気でそう思うのなら、しばらくここにいなさい」
「それだけで、やめられますか」
「やめられる恋もあるさ」
 太乙様の言ったことは僕には良くわからなかった。僕は結局代わり映えせず、太乙様とトーストと紅茶を食べた。
「あの……」
 食事中にお行儀悪く口を開いた僕に太乙様は言った。
「離れていれば、冷める恋もあるんだよ」
「冷めなかったら?」
「次の恋でも探すんだね」
「見つからなかったら?」
「じゃあ、そのときは私が相手をしてあげるよ」
「じゃあ、今お願いします」
「は?」
 そのときの太乙様の顔は見ものだった。あえて詳しくは書かない。武士の情けだ。
「君今、なんていったんだい?」
「だって、そのほうが手っ取り早いですから」
「……あきれたよ」
「イヤなんですか」
「いいや。光栄だよ。実にね」
 太乙様は投げやりにそういって、それから何を思ったのかにやりと笑った。
「つまり、今から私と君は恋人同士ってわけだ」
 太乙様の笑いに不吉なものを感じながらも僕はこくりとうなずいた。
 そしてその朝から僕と太乙様はコイビトになった。

     ☆

「恋人となったからには、君は僕の事を好きにならなくちゃいけない。そうだろう」
 太乙様はそういってにやりと笑った。この人はいつもにやりと笑う。にこりと笑うのはめったに見ない。それはもしかしたら、太乙様がホントはめったに笑わない人だからかもしれない。
「努力します」
 生真面目な顔で生真面目に僕が答えたものだから、太乙様はあははと笑い出した。
「それから、楊ぜん。君、私とキスできる?」
「は?」
「キスだよ。キッス。恋人同士ならそれくらいするだろう」
「はあ」
「で、どうなの? 私とキスするのは死にたくなるくらい嫌?」
「そんなことはないですよ」
 苦笑しながら僕はそういった。太乙様の表現がなんだかおかしかったから。だけれどこれは太乙様のちょっとした策略だったらしい。そこまで言われて僕がはいと答えることはまず不可能だ。
「じゃあ、ルールを決めよう。楊ぜん」
「え?」
「即席の恋人同士だ。ルールがあったほうが巧くいくと思わないかい」
「そんなものですか」
「まず第一に、君は今日から私の部屋で眠るんだ」
 それはどちらかと言えば、恋人ではなく夫婦であるような気もするが、生憎そういう方面にはとことん疎かった当時の僕は不思議にも思わなかった。
「第二に、君は朝起きたら私にキスをする」
「は?」
「嫌だったら、別れるよ」
「傲慢ですね」
「嫌なの?」
「……します」
 太乙様はまたにやりと笑う。
「第三に、お茶の時間は必ず二人で一緒にいること」
「それ以外はいいんですか」
「私は束縛されるのは好きじゃない。悪いけど、開発中にそばに人がいるのは嫌なんだ」
 実際太乙様は僕をラボに入れてくれたことはなかった。
「第四に……」
「まだあるんですか?」
「これで最後だよ。いいかい。これが一番重要だ。この洞府では玉鼎の話をしないこと」
「え……」
「そんな世界の終わりみたいな顔するんじゃないよ。私たちは恋人同士なんだよ。恋人がほかの男の話しなんかしたら、嫉妬して当然だろう」
「嫉妬するんですか」
「するよ」
 そういって太乙様はからかうように笑った。
「わかったかい。楊ぜん」
「……努力します」

next.

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