恋人ごっこ (2)
その日は、結局僕の荷物を物置から太乙様の部屋に入れ替えるのと、太乙様の部屋を片付けるので――実際これに一番時間がかかった――お茶の時間は省略になった。
あのころ、太乙様は弟子を取ってらっしゃらなくて――確か前にいた人が才能がないと言ってやめた直後だったのだ――僕は太乙様と二人で夕食を作りながら、今頃師匠は一人で夕食を作っているのだろうかと考え、申し訳ない気持ちになった。
「何考えてたの楊ぜん」
いたずらっぽく太乙様は笑う。
「申し訳ありません」
師匠のことは口に出さないルールだったので僕は何も言わず謝った。
「君、思ってることがすぐ顔に出るね」
「そうでしょうか」
夕食はパンと野菜のスープで食事はすぐに終わり、太乙様は宝貝の改造を頼まれたからとラボにこもった。僕は何もすることがなくて、太乙様の作った試作品の宝貝を観察していた。頭の片隅は師匠のことを考えたがっているようだけれど、僕はあえて無視した。太乙様の作ったルールは僕にとってもありがたかった。
やがて宝貝にも飽きて、僕は太乙様の部屋に行った。ごちゃごちゃと奇妙な機械が並んでいるのはきっとあの人の趣味だ。そのうち全部捨ててやろうと、太乙様が聞いたら真っ青になりそうなことを考えつつ、することもなかったので、僕は椅子に腰掛けてうとうとし始めた。寝台は一つしかなかったし、寝具もほかに用意していなかった。
次に僕が目を覚ましたのは、太乙様が戻られたときだった。
遠慮なく開いたドアの音で僕は目覚めたのだ。
「ああ、ごめんよ。楊ぜん、君がいたのをすっかり忘れていた」
太乙様は遠慮なくそういってから、何かおかしなものでも見るようにまじまじと僕を見つめた。
「ところで楊ぜん、何でそんなところで寝てるの?」
「何でって、あなたがここで眠れって言ったからじゃないですか」
「私はそんなところで眠れとは言ってないよ」
「だって、太乙様の部屋でって……」
「ああ、それは言った。けど、椅子で寝ろとは言ってないよ」
それは確かに言われてはいなかったので僕は膨れた。
「可愛い恋人をそんなところで寝かせやしないよ。寝台を使えばいいじゃないか」
「じゃあ、あなたはどこで寝るんですか」
「一緒に寝るよ。勿論」
僕は絶句する。
「恋人同士はそうする決まりなんだ」
「嘘だ」
「おや、どうしてそう思うの」
面白そうに太乙様は僕の顔を覗き込んだ。
「だって……だって。遠距離恋愛だったらどうなるんですか」
混乱のあまり僕がおかしなことを口走ったので太乙様は楽しそうににやにやした。
「面白いことを知っているね。楊ぜん。でも一緒に暮らしていて離れて眠る手はないよ。それとも……私と寝るのが死にたくなるくらい嫌?」
「そんなこと、ないですけど」
僕がそういったとき太乙様はくすっと笑った。その笑い方はまるで大人が子供が無知なのを笑うような笑い方で――まあ、実際そのとおりだったわけだけれど――僕はいささかむっとしたのを覚えている。
「ほら、話は決まった。そんな怖い顔をしていないで、早く寝台に入りなよ」
寝台は広かったので僕は精一杯端によった。
「そんなところにいると、下に落ちちゃうよ」
「僕、寝相はいいんです」
「大丈夫、何もしないよ」
「は?」
くすっとまた太乙様は笑った。
「なんでもない。いいからこっちへおいで。嫌われてるみたいでさびしいじゃないか」
そういわれて僕はちょっとだけ太乙様のそばへよる。
「そうだ。後一つだけルールを設けよう」
「なんですか」
「第五に、寝る前には私からキスをあげる」
そういうと太乙様は、僕の頬に小さく一つキスをした。
「おやすみ、楊ぜん」
太乙様は眠ってしまったけれど、僕はどきどきして、体中が心臓になってしまったような気持ちがしてなかなか眠れなかった。
どうしよう。朝起きたら今度は自分から太乙様にキスしなくちゃいけない。
そのことばかり考えていた。
☆
朝が来ても僕はずっと目を閉じていた。実のところほとんど寝た気がしなかったし、それに目を覚ますのが怖かった。隣で太乙様が起き上がる気配がし、僕は自分の身体が震えていやしないかとびくびくしていた。
「おはよう。楊ぜん。まだ寝てるの?」
起きない。
「いい加減に、起きなよ。お寝坊さん」
起きない。
「起きないと襲っちゃうよ〜」
……。起きない。
「ははあん。判った。怖いんだね。楊ぜん」
「だ、誰が怖くなんかっ!」
起きた。起きてから僕はいきなり起き上がったせいだけでなく眩暈を起こした。
「単純だなぁ」
真実すぎて言葉も返せない。
「おはよう。楊ぜん」
「お、おはようございます」
「挨拶はそれだけじゃなかったよね」
太乙様はにやりと笑って自分の頬を指差した。
僕は覚悟を決めぎゅっと目を閉じると、唇を押し当てるようにして太乙様の頬に口付けた。
「よくできました」
太乙様はそういうと僕の髪をなぜた。太乙様に抱き寄せられたような格好になってしまった僕は見事に硬直していた。
「いい髪だね。綺麗な髪だ」
「な、なんですか」
僕は慌てた。太乙様になでられたところがぞわぞわする。たまらず、僕は逃げ出した。
「やめてください! この変体!!」
部屋の中から変体は酷いよという声がかすかに聞こえた気がした。
☆
「あ、あのぉ。怒ってらっしゃいますか」
朝食後、一切何もしゃべろうとせずそのままラボに向かおうとした太乙様を僕は慌てて呼び止めた。
「そりゃあね。恋人に変体といわれちゃね。傷つかないほうがどうかしてるよ」
「ごめんなさい」
「それだけ?」
「もう言いません」
「それだけ?」
「……じゃあ、どうしたらいいですか」
僕は困って太乙様を見上げる。
「そうだな。じゃあ、デートしてよ、私と」
「はあ」
「嫌なの」
「いいえ」
「じゃあ、決まりだ」
まずその服を何とかしなくちゃねと太乙様は言った。
「そのままじゃ仙界のものだってばればれだからね」
「まさか、人間界に降りるおつもりですか?」
「当然」
「それはいけないことです!」
僕は慌てる。用もなしに人間界へ降りることは硬く禁じられていた。
「十二仙が着いていれば大丈夫だよ」
ばれなきゃいいんだと太乙様はにやりと笑う。
「服は私の持ってるものから着られそうなものを選んで、さあ楊ぜんこっちにおいで髪を結ってあげる」
思わず僕は半歩ほど飛びのいた。
「大丈夫だよ。そういうの、得意だから」
「自分でしますから!」
一時間後僕たちは地上にいた。
地上の人ごみの中で、僕は完全におのぼりさんと言った風情できょろきょろしていたと思う。都会に出たのはこれが初めてだった。
「これが地上ですか」
「どう。感想は?」
「眩暈がしそうです」
この中で誰かにぶつからずに歩くのは相当困難だろう。これはちょっとした修行になるのではないだろうか。
「こんなところで眩暈を起こしている暇はないよ。ここには楽しいことがたくさんある」
「そうですか」
確かに街には美しいものがあふれていた。ショウウインドに飾られた魅力的な商品。着飾った美しい女たち。そして、美しく統一された町並み。
ちょっと歩いてはすぐにぼんやりしてしまう僕に苦笑して、太乙様は僕の手を取った。
心臓がどきんとした。
これはなんだろう。
僕は本当にこの人が好きになったんだろうか。
そのときだった。
どんっと背中を押されるような衝撃があって、思わず僕はよろけた。ぶつかってきた男はそのまま走り去ってゆく。はっとして懐を確かめると財布がない。すりだ。そう思ったときには太乙様の制止も聞かず僕は駆け出していた。
走るのは得意だし相手より早い自信はあったけれど人ごみの中では圧倒的に分が悪い。
走りながら僕は叫んだ。
「すりです! その人、すりなんです!!」
ぱっと人ごみがわかれ、僕は男に追いつく。そのまま地面にねじ伏せた。
「さあ、僕の財布、返してもらおうか」
そのとき、男はゆがんだ醜い笑みを見せた。
「なんだァ、てめェ男かよ」
「な?」
男の言葉についてゆけずに僕は固まった。
「男同士で、いちゃついてんじゃねェよ! 気色わりィ!!」
唖然として僕の力が緩んだ隙に男は逃げ出した。逃げ出し際に僕の顔めがけてすった財布を投げつけてきた。僕は避けることもできなかった。右の頬に当たった財布が地面に転がった。
「楊ぜん! 大丈夫かい?」
しばらくして僕は漸く駆けつけた太乙様の言葉にわれにかえった。
「……遅いです」
「ごめん」
僕はちょっとだけ泣いた。男同士がどうのと言うよりも、真正面から投げつけられた悪意にショックを受けていた。男の目は憎しみでぎらぎらしていた。差別と偏見に満ちた目だ。あんな目は初めてだった。そして、そんな目が自分に向けられることになろうとは想像もしていなかった。
「帰ろうか、楊ぜん」
「はい」
視線が気になった。みんながじろじろと僕たちを見ているような気がした。僕はちょっとだけ太乙様から離れて歩いた。
本当は抱きしめて欲しかった。それくらい僕は気弱になっていた。
☆
洞府にもどって僕たちは並んでソファに座った。
無言で太乙様にもたれかかると太乙様は僕を抱き寄せてくれた。いつかの日と同じように何も言わずに。そして、やはり西日がまぶしかった。
「ねぇ、太乙様」
「なんだい?」
「なんで、こんなに西日が入る場所をリビングに当てたんですか」
いささか非難がましく、いささか甘えた調子で僕はそういった。
かまわない。僕たちは恋人同士なのだから。
「西日って好きなんだよ」
こともなげに太乙様は言う。
「悪趣味」
「そう?」
「いいえ。でも……嫌いじゃないですけど」
僕は一つため息をつく。次の台詞はちょっとした勇気が必要だった。
「あの。太乙様、このまま眠ってしまってもいいですか」
「眠るなら寝台に……」
「……一人で寝るのは……嫌なんです」
「ああ、そうだね。いいよ」
「ねぇ。太乙様……」
「どうしたの」
「ルール」
「ああ」
キスをもらって、僕は目を閉じた。
あれ以来、しばらく僕は地上には降りなかった。
next.
novel.
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