夢魔
前編
一面の花畑。白い花。あれは白つめ草。風にゆらゆらとゆれる、その花の向こうであなたは微笑む。
「楊ぜん」
ああ、あれはあなただ。×××なんかじゃない。正真正銘の、たった一人のあなた。
あれ、僕今、変なことを考えた。
ええと、あなたはあなただけであるはずで、勿論似たような人なんているわけなくて。そもそも、僕にとってのあなたの存在は大きすぎて、比較する対象などありえるはずが無い。それに今の思考は暗い影を潜めていて……、そんな存在、あなたのことを考えるときに思い浮かべるはずもないのだ。
だから、今の思考は嘘。これは間違い。
「楊ぜん」
あなたは大きな声で僕の名を呼び、大きく手を振る。
呼んでいる。行かなくちゃ。
まったく、あなたという人は一人で何でも決めてどんどん先に進んでしまうものだから、追いかける僕はいつも、心細い思いをする。あのときだって、勝手にいなくなってしまうから……
ああ、まただ。あの人が、僕を一人にするわけ無いのに。
思考は勝手に嘘をつく。これは間違い。
いつだってあなたは、僕のそばにいてくれるのだから。そう、いつだって。これからも。
やさしい光のような あ な た に抱きとめられて、彼は思考を停止した。
☆
かくんと、頬杖をついていた体制が崩れて、楊ぜんは目を覚ました。とたん、苦虫を100匹くらい噛み潰したような顔をする。
いやな夢を見てしまった。
いまさら、太公望の夢を見るなんて、これは終わってしまった恋をずるずると引きずっている証拠。
女々しいことこの上ない。確かにあれは、楊ぜんにとってこれ以上ないくらい手酷い失恋だったのだけれど。
愛した相手は、父親の敵でありました。
今時、メロドラマでもお目にかかれないような設定。それでも、太公望が太公望であったなら、楊ぜんはまだ、彼を愛することをやめられなかったかもしれない。だけれど、太公望は消えてしまった。伏羲は確かに太公望でもあるのだろうけれど、楊ぜんにはどうしてもそれが受け入れられなかった。
楊ぜんが信じていた太公望は、歴史を裏で操るようなことはしない。仲間を捨て駒にするようなことはできない。あのひとは頭のいい人だから、ずるい方法なんていくらだってかんがえついたはずなのに、終始太公望は仲間を裏切らなかった。そんなことをする太公望はもはや姿かたちがどうであれ、太公望ではありえない。
それに。これは、楊ぜん、これを認めてしまったらあまりにも自分が惨めで、できるだけ考えないようにしていたのだけれど。
はたして伏羲は楊ぜんを必要とするのだろうか。始祖としての凄まじいまでの力を持つ伏羲が楊ぜん一人を気にかけることなどあるのだろうか。それはまるで人間が蝶に恋をするような、そんなレベルの恋になってしまうのではないだろうか。
だから。この恋は終わったのだ。太公望が伏羲となった瞬間に。
激しく花開き、開いたと思ったらすぐに散ってしまう夏の日の花火のように。
それなのに。
「どうしてあなたは夢にまで出てきて僕を苦しめるのだろう」
それもこれも、最近忙しくないのがいけない。
へんな八つ当たりを楊ぜんははじめる。
ようやく終わった仙界大戦と、長く確執のあった両仙界の統合。それは困難を極め、楊ぜんは寝る間も惜しんで奔走した。それが、ようやく最近になりまとまりを見せだし、下部機関が順調に動き出し、そうすると頂点にいる楊ぜんには緩やかな安寧が生まれ、それが忙しかった反動を伴って、妙に気抜けしたような隙を作り、結果として、この夢、なのである。
「なんか、問題でも起こんないかな〜」
とんでもないことを呟きつつ。楊ぜんは空を眺める。
莫迦みたいに晴れ渡った空が、楊ぜんを見下ろしていた。
☆
「そんなもん、起こってたまるかよ」
笑ながら韋護は言った。
「おちおち、昼寝もしてらんねーじゃん。この不良教祖」
楊ぜんは思いっきり不満げに韋護をにらみつけ、それからひとつため息をついた。
「僕の悩みが君の昼寝と天秤にかけられて負けるって言うわけ?」
「なんでそう、極端にとるんだよ」
「どうせ極端だよ、僕は。冷静な判断力はないし、とても仙界を納められる器もないしね」
ねちねちと楊ぜんはいい、もう知らない、と勝手にむくれた。
「子供みてーだな」
ぎろりと楊ぜんは韋護をにらみつける。
「そんな顔してると、可愛くないぞ」
「うるさい」
「平和な証拠だろ。おまえもいいかげんさぁ、アイツとのこと決着つけろよ」
「着いてるよ」
「着いてないから、そんな夢見るんだろ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ! あの人は逃げ回ってるんだよ。決着つけようがないだろ、それとも指名手配でもするわけ?」
急に楊ぜんは食って掛かる。
「太公望は関係ないだろう。お前の中で決着をつけるんだから」
苦笑して韋護はいった。
「僕の中で本当に決着がつくとしたら、それは僕があの人に殺されるときか、あのひとが僕に殺されるときかどっちかだ」
「そういうとこが餓鬼なんだよ」
楊ぜんは何か言いたそうに韋護をにらみ、それから小さく呟いた。
「わかってるよ。わかってるけど……しかたないじゃないか、それでもしつこくあの人は夢に出てくるんだから!」
ばたん、楊ぜんは立ち上がる。握り締めたこぶしがわずかに震えているのをみとめ、韋護はへんに真面目な声で言った。
「ごめんな、楊ぜん」
「謝るなよ。僕が勝手に韋護君にからんで、君を困らせてるだけなんだから」
「ああ、悪かったよ」
「謝るなって言ってるだろ!」
くるん。楊ぜんはきびすを返す。
「追いかけてきたら、絶交だからな!」
走り去った楊ぜんと取り残されあっけにとられた韋護。
くすっ。韋護は笑う。
「ほんっとに、餓鬼なんだから」
それでも、その瞳はやさしく微笑んでいた。
☆
「楊ぜん」
白いシーツに波打つ波紋。
あなたはだれ? いとしいひと。
「愛しておるよ」
繰り返される囁き。あたたかな温もり。
会いたかった。待っていた。あなた。
怖い夢を見ていました。とても怖い夢。
あなたがあなたでなくなってしまう夢。
接吻。抱擁。睦言。
世界は身震いし、ゆらゆら揺れて、やがて一つに収斂する。
やがて一つに収斂する
☆
ぱちん。目を開ける。
目覚めは最悪だった。
悪夢。もう、これ以上ないくらいの悪夢!
心の中で楊ぜんは叫んでいた。
なんだって、よりによって、あんな、あんな、あんな夢!
こんな夢を見せた脳を取り出して引き裂いてやりたい。ぐちゃぐちゃに踏み潰してそれからそれから――
そこまで考えて、楊ぜんは自分の考えにちょっと気分が悪くなり、青ざめた。
とにかく。忘れてしまおう。
こんな夢、見なかったことにしてしまおう。
ぱんっ。ひとつ胸の前で手を叩く。
これでお終い。
いやな夢はつぶれて消えた。
小さなころの師匠のおまじない。いまはもう、楊ぜんを抱きしめることのできなくなった師匠の。
そう、師匠は封神されてしまったから。神界に復活しても、身体は元には戻らなかった。そこには意識体があるだけ、会話をすることも笑いあうこともできるけれど、それは触れ合えない切なさをよりいっそう際立たせる。
それだって、結局は伏羲の計画のうちなのに、僕はあんな夢……
ああ、だめ。おまじないをしたのだから、忘れなければ。
起き上がる。すべて忘れるために。
顔を洗って、パジャマを脱ごうとした時点で楊ぜんはふと違和感に気がついた。
身体が変。ふわふわするような。今まで、あの夢のショックがあまりにもきつすぎて気づかなかったのだけれど。
なに。気のせい? 病気?
混乱した楊ぜんは勢いよくパジャマを脱ぎ捨てる。
そして。
そして。
「うわあああああぁっ!」
静かな朝にその声は実に良く響いた。
やや低めの。それでも、どう聞いても女性のアルト声が。
next.
novel.
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