夢魔
中篇
「そもそも妖怪というものは、人間よりもずっと性が未分化なものなんだ……」
遠くで話し声がする。
あれは誰だろう。夢うつつで楊ぜんは考える。
うつらうつら。ぼんやりと意識は浮上し、また沈み込もうとする。
「大体において幼体のときに初めて性が分化する」
うつらうつら。
「しかし、一度固定した性は、やはりめったなことでは変わらないわけで」
楊ぜんの意識はもうほとんど眠りの中に飲み込まれており、だから話し声は遠くなり近くなり、ときにまったく意味を成さない言葉の羅列として彼の脳に送り込まれるだけ。
「つまり彼は、妊娠してるんだ」
うつらうつら――え?
急激に、彼の意識は浮上した。
ぱちん。まるで機械仕掛けの人形のように彼は目を開く。
「ああ、楊ぜん、起きたのかい?」
のほほんとそんな声をかけたのは。
「雲中子様!」
楊ぜんは叫ぶと、なんとか雲中子から身を守ろうと精一杯後ずさりし、寝かされていた寝台から落っこちそうになり、と、彼をあわてて抱きとめた手が一つ。
「と、太乙様ですか」
ほっとして息をつくと、随分と反応が違うじゃないかと、雲中子がすねかえっていた。
「あなたにはさんざんいぢめられましたからね」
楊ぜんは膨れる。
「いぢめたなんて、人聞きの悪い。私は貴重なサンプルである君が大好きだっただけじゃないか」
そういうのが迷惑なんですよと楊ぜんはまたあとずさる。と、今度は結構きつく太乙真人が楊ぜんの方を抑えた。
「雲中子。やめないか。だけれど、楊ぜん。君もあんまり急激な運動は良くないよ。何しろ君は……」
その心配そうな声音を聞いたとたん。
「ああっ!」
みなまで言わせず楊ぜんは声を上げる。傍で心配そうに太乙真人がおろおろしているのを横目に、今度は逆に雲中子ににじり寄った。
「そういえば、あなたさっき、聞き捨てならないことを仰いましたね! 僕が……」
「そう。君は妊娠している」
雲中子はあっさりと言い、なんて貴重なサンプル! と目を煌かせた。
「雲中子! こういうことはもっと慎重に本人に知らせるべきだろう」
「どう知らせようと、真実は変わらないさ」
食って掛かる太乙真人にまったく動じる気配のない雲中子。その横で楊ぜんはといえば、茫然自失していた。
「ああっ。楊ぜん。大丈夫かい? しっかりしておくれよ」
太乙真人はさらにおろおろする。
「君がうろたえてどうする」
雲中子は呆れ顔でかおをしかめる。
「失敬だな。私はうろたえてなんかいないよ」
「そうかな、まさか君が……」
その言葉は茫然自失していた楊ぜんの頭にも実に良く響いた。
まさかきみが。その言葉に続く言葉といえば。
まさか君がお腹の子の父親なんじゃないだろうね。
「違いますよ!」
楊ぜんは叫んだ。
そんな覚えない。そもそも楊ぜんにはまったくそんな心当たりがない。
そうだ。子供ができるからにはその原因が当然あるわけで、楊ぜんにはまったくその心当たりがなかった。
「僕に子供なんかできるわけないです」
だから。楊ぜんは堂々とそういって、騒ぎ立てる二人をきっと睨み付けてみたのだけれども。
「いや、楊ぜん。それがちょっと違うらしいんだよ、どうやら」
太乙真人は幼い子供をなだめるように説得を始める。
「妖怪というものは、私は知らなかったんだけどさ、コイツがいうには――そういって太乙真人は雲中子の袖をぐいっとひっぱってみせた――人間よりずっと性が柔軟なものらしいんだ」
ああ、それはさっき枕元でごちゃごちゃ言っていた御託じゃないか。
「それで、あなたは妖怪の僕なら妊娠してもしょうがないってそういうんですね」
すっかり目を据わらせて楊ぜんはそういった。
「え? うん。つまりそうなんだけど――楊ぜん?」
大丈夫かい? 君。その台詞を太乙真人は喉の奥に飲み込む。なんとなれば、楊ぜんが、なぜだかとても――怖かったから。
これは、たぶん。怒りだ。
どうやら、楊ぜん、本気で怒っているらしい。
「では、お伺いしますけどね。妖怪である僕は単性生殖なんてものも、できちゃったりするのでしょうかねぇ」
ほんの少し、いやみを含ませつつ楊ぜんは口角を上げてみせる。
「へ?」
「僕はあの日師叔が消えちゃってから、ずっと一人ですっ!」
大声でそう宣言してから、楊ぜんは酷く悲しくなる。嗚呼、何でこんな情けないことをわめき散らさなくてはならないのだろう。
「もう、お二人とも出てってください! 出ていって!」
ばしんっと枕を投げつけ、楊ぜんはさらに枕元にあった観葉植物に手をかける。
あわてて太乙真人と雲中子は部屋から逃げ出した。
さて、それから楊ぜんの何がなんだかわからない感情の嵐が収まるまで十数分を要する。
その十数分後――
ぎゅいっ。
お腹を押さえる。軽くなでる。
やわらかくてしろい女の腹。
だけれど、ぺったんこな今の楊ぜんのお腹。
ここに子供がいるって?
「莫迦莫迦しい」
ぎゅいっ。
実は楊ぜんには一人だけ心当たりがあった。
勿論、一般的に子供ができるといわれるようなことをした覚えはないのだけれど、そんなことをしなくても楊ぜんを孕ませることができそうな人物が一人だけ。
始祖。伏羲。まさにその人。
「だとしたら――許さない」
この場合、楊ぜんが当然に思うはずのことは、まず、なんのために? で、あるはずなのだけれど、頭に血が上っている楊ぜんはそんなことはとても思いつけない。
だから許さない。存在自体許しがたいのに、夢でまで楊ぜんをあざ笑い――実際、楊ぜんにはそううとしか思えなかった――さらに、自分の子供を産ませようとするなんて。
「産むわけないじゃないですか」
次に楊ぜんの白い顔に浮かんだのは黒い笑い。
「あなたの子なんか、死んでも産むわけないじゃないですか」
ぎゅっ。楊ぜん、お腹を押さえつける。痛いくらいに。強く、強く。
とたん、眩暈とともに強い吐き気が襲って、楊ぜんは軽くえづいた。
「あなたの好きになんかさせない。絶対に、させないから」
その日から、楊ぜんは教主の職を休んでいる。
半分は自分から、半分は無理やりに。
妊娠した楊ぜんは、とても感情の起伏が激しく、とてもじゃないが仕事のできる状態ではなかったから。
☆
いちめんの白い花。
いちめんの。
楊ぜん――
―― あ い し て る ――
☆
泣きながら目を覚ましたのは何年ぶりだろうか。
楊ぜんは軽く自分の腹を押さえ、ゆっくりと目を閉じる。
「こんな夢を見せて、あなたはいったい僕に何をさせるおつもりなんですか」
泣き笑い。もはや楊ぜんにははっきりとわかる。あれは夢であって夢でないのだ。おそらくは伏羲が意図的に見せているヴィジョン。
「言ったでしょう。あなたの子供なんか産まないって」
あの後。妊娠が確定的だとわかってから、楊ぜんはできうる限りの反抗を試みたのだ。男性体にもどろうとし、それが失敗すれば、無機質にでも変化して胎児を殺そうとした。変化の能力をもつ楊ぜんと違いなんの修行もできているはずのない胎児はそれでつぶれてしまうはずだった。
だけれど。楊ぜんからはそもそも変化の能力が失われていた。おそらく胎児を守るために変わってしまった――変わらされてしまった?――楊ぜんの身体。
だったらいっそうのこと意思も感情もすべて殺せばよかったのに。
「ねぇ、伏羲。だけれどね」
お腹をなぜながら楊ぜんは嗤う。
「これははじめての僕にとっての手段にもなりうるんですよ」
ぎゅっ。指先に力を込める。
「僕のあなたへの対抗手段。この子の命は僕が握っているのだから。せっかく根付かせた命を殺したくはないでしょう?」
そういうと楊ぜん、寝台の脇にある机の上を手でまさぐる。手につかんだのは銀のレターナイフ。それは小さく、だけれど確実に尖っている。
「僕は死ぬのなんかちっとも怖くない。あの人が消えたのに僕が生きているなんてナンセンスだもの。そうだ……どうして気がつかなかったのだろう」
ここで楊ぜん、軽く思いをはせる。
なぜ、太公望が消えたのに自分は自殺しなかったのか。
そして、楊ぜんはもう一度泣き笑いの表情になる。
あの人が望まなかったからだ。太公望ならば、決してそんなことは、楊ぜんが死ぬようなことは望まなかったから。それを思うと楊ぜん、なんだかたまらなくなり、心の中でひたすら太公望に懺悔する。
ごめんなさい。師叔。ごめんなさい。
あなたならきっと笑って、その子には何の罪もないであろう、となだめてくれるのだろう。だけれどもうあなたはいないから。楊ぜんはもう、この子が手段足りえることに気がついてしまったから、そして、楊ぜんが伏羲に一泡ふかせることができるとしたら、もうこの方法しか残ってないから。
だから、ごめんなさい。
もういい加減、あなたのそばに行きたい。
楊ぜんは硬く目を閉じ、ナイフを振り上げ、それを自分のお腹に向かって――
そのとき。
それは現れた。
空気の中から、まるで溶け出すように現れ、そっと、だが確実に楊ぜんの手首を押さえ込んだそれ。後ろ抱きに、片手は手首に片手は腹に、まるで二つの命を守ろうとするかのようにあらわれたのは――
「やっと出てきましたか、伏羲」
黒い髪、青い瞳、あの人となんら変わることのない、その顔。
「いかにも」
そういうと伏羲は器用に楊ぜんの手からナイフを抜き取る。
床に当たったナイフがチャリンと弾ける。
その音だけが異様に大きく響いた。
next.
novel.
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