月の引力
ふっと蝋燭の灯りを吹き消して太公望は笑った。
「ごらん。今宵の月はなんと明るい」
残業というほどでもないにしろ、残って仕事をしている太公望に付き合って、一緒に机についていた楊ぜんは不意に顔をあげる。
「ああ、満月なのですね。今日は」
天空には青白い月。満月の晩は事故がおきやすいと聞いたことがある。人間は月の引力に引かれてちょっとだけおかしくなる。
「こんな日に仕事も無かろう」
そう言って太公望は笑った。楊ぜんもつられて微笑む、どちらにせよ急ぎの仕事ではないのだ、ただ太公望に付き合って残っていただけなのだから。
「ええ、本当に」
太公望は少し休んだ方がいい。楊ぜんは思う。彼は決して周公旦が思っているほどちゃらんぽらんではない。だったらそう急ぐわけでもない仕事を、こんなに長くまで残ってやっていくものか。
とても、楊ぜんには出来ない芸当。くすっと心の中で楊ぜんは笑った。自分だったら人目の無いところではだらけていたとしても、誰かの目に付くところでは完璧を目指すだろう。完璧主義者。そういうことにしてあるけれど、本当はただ子供みたいに褒めてほしいだけなのだということは自分が一番良く知っている。
「いつも着き合わせてしまって済まぬのぉ」
「いいえ。僕が自主的に残っているだけですから」
いいながら楊ぜんはちょっとだけ考える。さっきの論旨から行くと、僕は師叔に褒めて欲しいと思っていて、だから一緒に残っているのだろうか。
それはちょっと違うような気がした。いくら楊ぜんでもそこまで計算ずくの行動はしない。
「では――」
おやすみなさい。そう言って自室に下がろうとしたとき、太公望がひょいひょいと手招きした。
「のぉ、楊ぜんせっかくの月夜なのだ。わしの部屋で酒でも飲まぬか」
楊ぜんはきょとんとする。そんなことを太公望が言い出したのは初めてだ。否、仲間内でわいわいと騒ぐのはむしろ好きそうだけど、自室で二人きりでというのは珍しい。
何故? たまたま思いついたのだろうか。
特に愛想も良くない楊ぜんなどと一緒に酒なんか飲んで太公望は楽しいのだろうか。否、そもそも太公望は楊ぜんが普段酒を飲まないことを知っているはず。
酒を飲むのは嫌いだ。飲んで万が一自分の秘密を暴露してしまったらと思えば怖くてたまらない。それに、誰かと個人的に付き合うのは好きじゃない。親しくなれば親しくなっただけ、正体がばれたときに自分が傷つかなければならないことを楊ぜんは本能的に知っているから。
誘いには乗るべきじゃない。丁重に断れば師叔は決して根に持つような人じゃない。
まるで暴風雨のようだ。一瞬にしてそれだけの考えが楊ぜんの頭の中をよぎっていった。
「僕は……」
楊ぜんは口を開く。
「嫌か?」
「いえ、あの」
とっさに口ごもる。
莫迦、断るんじゃなかったのか。頭の中で誰かが囁く。
「そうか、では行こう」
後悔した時にはもう遅い。太公望はさっさと背中を見せて歩き出していた。
廊下は酷く長く、楊ぜんは自分が信じられなかった。断れるはずだった。こんな場面は過去にいくらでもあったのだから。
「天才道士様と酒を酌み交わすという機会もなかなかあったものではないからのぉ」
あっけらかんと太公望の声が月明かりの中に響く。
「おぬし、宴会ともなるといつも逃げてしまうであろう」
「ああいうのは、あまり好きではないのです」
言い訳がましく楊ぜんは答える。
「無理にとは言わぬがたまには顔を出したほうが良い」
「ええ、すみません」
「謝ることでもないよ」
しばらく会話が途切れ、なんだか居たたまれなくて楊ぜんは口を開いた。
「今宵は本当に綺麗な満月ですね」
「うむ。感謝しておるよ」
「満月にですか?」
「おぬしと酒を飲む口実が出来たからのぉ」
なんと言っていいのかわからず、楊ぜんは再び黙り込んだ。
多分きっと、満月のせいだ。月の引力で太公望も楊ぜんもちょっとだけ壊れている。
太公望の自室は殺風景だった。楊ぜんも特に部屋にごちゃごちゃと飾り付ける趣味は無いが、太公望の場合は本当に寝に帰るためだけの部屋といった様相だ。取り立てて何かを想像していたわけでもないのだが、意外だった。これでは周から与えられたときのままではないのだろうか。淋しい部屋だ。
「驚いたか、何も無くて」
まるで心を読んだように太公望が尋ねてくる。
「ええ」
「あまり自分の部屋にはおらぬからのぉ」
そういえば、太公望は休みの日にもなぜか自分の部屋ではなく外の木陰で昼寝をしていたりする。
「実は客人を招くのもおぬしが初めてなのだ」
そう言って太公望は笑った。ごそごそと一升瓶と杯を取り出す。
「それは光栄ですね」
楊ぜんは微笑む。
「飲むであろう? おぬしも」
「じゃあ、ちょっとだけ」
透明な酒からは、つんと桃の香りがした。
「仙桃ですか?」
「おぬしにはその方が良いかと思って」
太公望は笑う。わざわざ仙界から取り寄せてくれたのだろうか。酒に弱い楊ぜんを気遣って。その気遣いはいささか見当はずれではあったのだけれど。
楊ぜんは太公望を見つめる。僕にこの人にこんなに優しくしてもらえるだけの何があるのだろう。居たたまれないようなもどかしいような、そしてほんの少し嬉しいような。
「太公望師叔。何を企んでらっしゃるのですか」
「失敬だのぉ、何も企んでなどおらぬわ。言ったであろう、わしはおぬしと酒を飲みたかったのだ」
「どうしてですか?」
「どうしてって、普通そんなことを訊くか、おぬし?」
「ああ、すみません」
だって楊ぜんは誰かとこんな風に会話をするのに慣れていない。何を言ったらいいのか判らない。早く切り上げて帰らなければ、そう、ぼろが出る前に。
「まあ良い。おぬしのことを知りたかったのだ」
危険。
楊ぜんの表情が強張ったのをどう思ったのか太公望は慌てて言いつくろった。
「ああ、そんなに身構えずとも良い。わしはべつにおぬしの素行調査とかそういう物をしたいわけではないのだ。わしはただ、おぬしと親しくなりたかっただけで――」
そこまで言って太公望は決まり悪そうに目をそらした。ついで呟く。
「しまった。ここまで言うつもりではなかったのだ」
頬杖を着いて月を見上げて太公望は言った。ちょっとふてくされたように。
「上手くいかぬものだのぉ。どうしてだろうか、楊ぜん」
「何がですか」
楊ぜんは首をかしげる。今宵の太公望は本当に変だ。普段の彼なら決して自分の中にだけ答えがあるようなこんな無意味な問いかけはしない。
太公望は楊ぜんを振り返る。
「誘わなければと思ったのだ。今宵おぬしを」
「何故?」
「何故であろう。わしにも判らぬ。だが、おぬしと満月を観たかったのだ。2人きりで」
「僕の何があなたのお気に召したのでしょう」
太公望はしばらく考える仕草をした。それからにやりと笑う。
「わしばかり質問攻めとは卑怯だ」
意地悪な顔。
「おぬしはどうだ。何故わしの誘いに乗ってくれたのだ。仕事も遅くまで手伝ってくれる。わしが上司だからか? おぬし決して付き合いのいい方ではあるまい」
「僕は……」
楊ぜんは考える。褒めて欲しかったから? まさか。
太公望が上司だから?
「否、おぬしはそんな義理堅い人間でもあるまい」
答える前に太公望に指摘されて楊ぜんは少しだけふくれる。
「随分な云われようですね。僕はちゃんと上官であるあなたのことを気遣ってますし尊敬もしてますよ」
「ではそうなのか? わしが上司だから嫌々ながら一緒に残っていたと」
「嫌味な言い方ですね。そうじゃないですよ。それは僕がただ自主的に残っていただけです」
「何故?」
何故って、それはきっと――
一人になるのが嫌だったからだ。
「わしはな、孤独と言うのがどうにも耐えがたいのだ」
不意に太公望は口を開いた。
「だがな、誰かを縛り付けて一緒にいてもらうのも嫌だ。おぬしが自主的にわしに付き合っていてくれたのだとしたら――それは、よかった」
良かったと太公望は笑った。ほっとしたような、ちょっと嬉しそうなその笑顔は思いのほか新鮮なもので、いくぶん太公望が幼く見えるほどだった。
必要も無いのに太公望が遅くまで仕事をしていたのも、一人になるのが嫌だからだろうか。そう考えて楊ぜんは、奇妙な感覚にとらわれる。胸の奥が痛いような感じ。もしかしたら、楊ぜんと太公望は根っこのところで酷く似ているのかもしれない。同じように胸に孤独を抱えて。
だけれど。
「おかしな人ですね。あなたはちっとも孤独なんかじゃないじゃないですか」
楊ぜんと違って太公望の周りにはいつも人が溢れているのに。
「それで孤独だなんて、贅沢ですよ」
口から出た言葉はまるで拗ねているようで、楊ぜんは少し後悔した。そんなことを言うつもりではなかったのに。
「そうだのぉ」
太公望は笑う。彼は何でも優しく包み込んでしまう。楊ぜんのとんがった心も。その中に住んでいる200年前に捨てられたいじけた子供も。
「でも、だからこそ怖いのではないか。部屋に帰って自分がたった一人だと気付く瞬間が」
弱気な太公望は珍しい。彼は彼で気を張っていたのだろうか。
格は高いが若すぎる道士。封神計画を担うには役不足ではないかとの声も実際に仙人界では響いていた。かつての楊ぜんもまた、そう考えていた。プレッシャーにならないはずは無いのだ。
そう思った瞬間。
「大丈夫ですよ。師叔。僕がいますから」
何の気負いもなくその言葉はさらりと口に出た。言ってから呆れる。自分が太公望を励ます構図など想像したことも無かったのに。奇妙な居心地の悪さが残って楊ぜんはまたほんの少し後悔した。
太公望は笑って、そうだのぉと呟いた。
「わしもそう思ったのだ。おぬしならそばにいてくれるのではないかと」
この、不思議と暖かい気持ちはなんだろう。
こんなことは初めてだ。
「それに」
太公望はにやりと笑う。
「おぬしも孤独が駄目なくちであろう? 付き合いは悪いくせにのぉ」
楊ぜんはどきりとする。なんなのだ、このすべて見透かしたような瞳は。
「仕方ないのぉ。残業などせずとも一緒にいてやろうではないか」
わざとらしい口調。
ひょっとしてこの人は。不意に楊ぜんは気がつく。
孤独を恐れる楊ぜんのために、まさにこの台詞を云うために楊ぜんを部屋に誘ったのだろうか――?
否、否。それは余りにも考えすぎか。
わからない人。不思議な人。
だけれどこの瞬間から。
太公望は楊ぜんの特別な人になった。
影法師
novel.
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