青葉抄 前編



 ぼんやりと水面を眺めていた。
 水はきらきらと光をはじき、生きているようにうごめく。まだ風は冷たく、頬を照らす日の光は弱い。けれど、咲き始めた梅は香り桜のつぼみは膨らみ始める。
 あれから何度目の春だろうと、楊ぜんは考えた。
 あれから――伏羲の妻になった日から。
 初めの頃は嫌で嫌で仕方のなかったあの行為も、今では日常となりつつある。今はむしろ、触れてもらえない日がさびしい。伏羲は未だたくさんの恋人を持ち、まるで花から花へさまよい遊ぶ蝶のように女性達の間を飛びまわっている。
 最近、楊ぜんは恐ろしい不安にさいなまれることが多くなった。
 十六の春を迎えてから急激に背が伸びた。今では伏羲をすっかり追い越してしまっている。身体は確実に男に戻ろうとしているのだ。楊ぜんが完全に男になってしまったら、伏羲は楊ぜんをどうするのだろうか。
 誰からも愛され、誰からも好かれる伏羲。
 その伏羲に、男でも女でもないような歪な自分は不釣合いだ。

「おお、楊ぜん。ここにおったか」
 伏羲の出現で、楊ぜんの思考は中断された。
「伏羲様」
「せっかく、帰ってきたのに出迎えもしてくれぬとは、楊ぜんはつれないのぉ」
 にこりと伏羲は微笑む。楊ぜんは素直に微笑み返すことが出来ず、固い口調で答えた。
「申し訳ありません。考え事をしていたので」
「おぬしの思い悩む姿は美しいが、しかし、あまり思いつめるでないよ」
「誰のせいですか」
 思わず言葉が口から漏れる。
「おや、わしのせいであったか」
 伏羲はとぼけた。
「何が気に入らぬのだ。言ってみるが良い」
「判っているくせに」
 伏羲はなだめるように楊ぜんの髪を撫でる。
「相変わらず、綺麗な髪だのぉ」
「そんなにお好きなのでしたら、切ってあなたに差し上げます」
「恐ろしいことを言うでないよ、楊ぜん。髪を切るなどと」
「いっそ、髪を切って出家してしまえればどれほど良いでしょうね」
「許さぬよ」
 短く、でも有無を言わせない口調で伏羲は楊ぜんを嗜めた。
 楊ぜんはやんわりと首を振る。
「あなたは一体、僕をどうしたいのです」
「わしのそばにおればよい。共に歌を詠み琴を奏で、歳を重ねてゆけばよい」
「歳をとれば醜くなります」
「おぬしは何時だって、美しいよ」
「嘘です。今だって十分醜い!」
「どうしてそう思う? 水に映して自分の姿を見てみよ。これを美しいといわずに何と言うのだ」
 伏羲はそういったが、楊ぜんは水に映った自分の姿から目を背けた。
「男にも女にもなれない。この歪みを醜いといわずに何と言うのです!」
「くだらぬな」
「くだらない? 僕をこんなにしておいて、あなたはくだらないって仰るんですか!」
「選んだのはおぬしであろう?」
 そっと、伏羲は楊ぜんの髪を一房掬った。楊ぜんはその髪をヒステリックに奪い返す。
「触らないで!」
「どうした、楊ぜん」
 対する伏羲は何事もなかったかのように微笑んだ。
「あなたの顔なんか、見たくもありません!」
 叫ぶと楊ぜんは、伏羲を置いて部屋へと戻った。

 あとには、ぽつんと伏羲が残された。
「歪みか……」
 小さくつぶやく。
「しかし、おぬしほど真っ直ぐなものもそうおらぬだろうよ」
 春の風がいたずらのように彼の髪を撫でていった。

 悲しかったが、それよりも腹が立っていた。楊ぜんの悩みをくだらないと一蹴した伏羲。
 誰のせいでこんなことになったと思っている。
 選んだのは楊ぜんだが、それ以外の選択肢をことごとく踏み潰していったのは伏羲ではないか。
 あの時――
 不意に楊ぜんは思い立つ。
 ――あの時、伏羲に引き取られずに本当の父に引き取られていたら、どうなっていただろうか。
 無論、肩身の狭い思いはしただろうけど。
 楊ぜんは間違いなく、男として生きていけたはずだ。
 伏羲のように朝廷に勤め、広い世界を見ることが出来ただろう。きっと自分は出世できた。その才能は十分にあるはず。
 一度そう思ってしまうと、楊ぜんは伏羲に自分の未来と才能を奪われたような気がしてならなかった。


     ☆


「楊ぜん様、新しく楊ぜん様付きになった女官が参りました」
 揚羽が現れたのはそんなときだった。
 案内されて入ってきた黒髪の少女は美しかった。光をはじいてきらきらと光る美しい黒髪と、細く優美な手足。やや釣りあがった瞳は凛として大きく、しかし強烈な意志の強さを感じさせた。
「揚羽と申します」
 鈴を転がすような声で名乗って、揚羽は深々と頭を下げた。
「新しく僕付きに? では、朔夜は?」
 楊ぜんは驚いて、揚羽を案内してきた女官を見上げる。朔夜は楊ぜんが祖母の家にいたときから世話になっていた女官だ。今更、女官を代えられるとは思ってもいなかった。
「朔夜様は、お母様のお加減がよろしくないとかでご実家に戻られました」
「そんな。朔夜が僕に何も言わずに、いなくなるわけがありません!」
 思わず楊ぜんは叫ぶ。
「急なことだったのです」
 言い募る楊ぜんに顔色一つ変えず女官は静かに言葉を返した。
「揚羽は楊ぜん様と歳も近いですし、よい話し相手にもなろうと伏羲様が」
「朔夜がいなくなったのは伏羲様の仕業ですか」
 はっとして楊ぜんは女官に詰め寄った。
「なんてことを仰るのです」
 女官は眉をひそめる。
「伏羲様に朔夜を戻すよう言ってください」
「朔夜様は戻りませんよ」
 意地悪く女官は言った。
「では、僕が直接伏羲様に話しましょう」
 楊ぜんは立ち上がりかける。
 それまで、揚羽は一連のやり取りを、その大きな瞳で黙って見ていた。
「楊ぜん様、朔夜様のご母堂が倒れられたのは本当なのです」
 凛とした声が響く。
 楊ぜんははっとして揚羽を見つめた。
「わたくし、存じておりますわ。それは本当なのです。でも――伏羲様が朔夜様を煙たがっていたのも本当ですわ。これを良い機会だと考えたのも」
「それは……本当ですか」
「あくまでも推測に過ぎませんが、本当です。伏羲様とお話した感じでわかりました」
「揚羽、あなた、仮にも主人に向かって失礼なことを申すのではありません」
 女官は揚羽をしかりつけたが、揚羽は黙らなかった。
「私の主人は楊ぜん様ですわ。伏羲様ではございませんし、ましてやあなたじゃございません」
「あなたを雇ったのは伏羲様ですし、私はあなたの上官ですよ」
「あら、でも。伏羲様はそのように仰いましたわ。楊ぜん様を第一に考えなさいと。ですからわたくし、楊ぜん様が今一番お知りになりたいのじゃないかと言うことを申し上げたのですけれど……違いましたかしら」
 かわいらしく揚羽は首を傾げるが、その瞳は生意気そうに微笑んでいた。
「いえ、その通りです。ありがとう」
 あっけにとられつつも、楊ぜんは答える。
「では。仕事は終わったのじゃなくて? 上官殿」
 あでやかに、揚羽は微笑んだ。

「御髪が乱れてしまいましたわね。髪を梳かしましょうか」
 上官が怒りに任せて退出した後、揚羽は何事もなかったかのようにそういった。
「いいよ。手櫛で直るから。それより、あんなこと言ってしまって拙かったんじゃないかい? あの人は伏羲様のそばに古くからいる女官だよ」
 かえって、楊ぜんのほうが心配になってしまう。
「大丈夫ですわ。あの方、伏羲様に嫌われていますもの」
 おかしそうに揚羽は笑った。
「珍しく、あんなにはっきり伏羲様が態度でそれを示しているのに、わからないなんて随分お莫迦さんなのね」
 何となくそういったことを感じたことはあったので楊ぜんも一緒に笑った。
「君は伏羲様に会ったの?」
「ええ、楊ぜん様付きの女官にと伏羲様が直々にいらっしゃいました。父や母は随分反対しましたけれど、あの伏羲様をとりこになさっている楊ぜん様に是非ひとめお会いしてみたかったものですから」
「ああ、君は貴族の出なんだね」
「没落貴族ですわ」
 特に嘆くふうでもなく、揚羽は言った。
「君も伏羲様目当てで来たの?」
 ちょっと意地悪く、探りを入れるように楊ぜんは問う。
「あら、わたくし楊ぜん様にお会いしたかったと申し上げたはずですわ」
 目を丸くして、驚いた風情を装って揚羽が答えた。
「社交辞令は良いよ。伏羲は気が多いし、君は美人だし、伏羲に取り入れば家だって持ち直すかもしれない」
「それはないわ」
 切り捨てるように揚羽は言った。
「伏羲様がわたしに、そういう意味で興味をお持ちになることはありません。もちろんわたくしも」
「どうして?」
 楊ぜんは驚く。女は皆、伏羲のような人にあこがれるものだと思っていた。
「同属嫌悪」
 短く揚羽は答える。
「恐れ多いことですけれど、伏羲様もわたくしも、見えすぎてしまうのですわ。人の心が」
 揚羽がそういった瞬間、楊ぜんの中を一瞬、憎しみのような鮮烈な思いが貫いていった。
「僕にはわからない。あの人が何を考えているか……」
 その、あまりの思いの強さに、身震いしながら楊ぜんはつぶやく。
「あなた様は決して、頭の悪い方ではありませんのに……」
 驚いたように揚羽がつぶやく。
「でも。そうね。あまりに大きすぎる想いは……それを向けられた対象には判りにくいのかもしれません。ましてや伏羲様は、わたくし以上の歪みをお持ちですもの」
「歪み? 伏羲が歪んでいるというの?」
 楊ぜんは首を傾げて尋ねた。
「あの方はあまりになんでも持ちすぎですもの。歪んでしまって当然ですわ」
 揚羽はそういって微笑んだ。
「歪んだ想いを一身に受けられて、お可哀想な楊ぜん様……」
 揚羽の声がどこか遠くで聞こえた。

 歪んでいるのは伏羲だと言う。
 ならば、今の楊ぜんは。伏羲のゆがみを映した鏡に他ならない。

next.

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