チョコレート・ラプソディ
前編
教室の窓から外を見れば、薄い水色の冬の空が広がっている。ショートホームルームが終わった後の教室は当然のことながら騒がしい。部活へ行くもの、委員会の用事があるもの、友達としゃべりながら放課後の予定をあわせるもの。
楊ぜんも家に帰るつもりで学校指定のコートに袖を通す。
ふと、視線を感じて振り返ると、女子のグループがちらちらとこちらを見ていた。目があうと慌ててそらされる。そして、それを話題にしてきゃあきゃあと騒ぐ。可愛いと思う反面、ああいうノリはちょっと苦手だ。
そういえば、あれが近いんだっけ。
かばんをつかむと、逃げるように教室を後にする。
あの人に捕まったら大変だ。
廊下に出ると思いのほか静かだ。どうやら楊ぜんのクラスは比較的早くホームルームが終わったらしい。隣のクラスはまだホームルームをやっている。今のうちに帰ってしまおう。
校舎は3年前に建て替えられたばかりで、白い廊下は未だ真新しい。校内は上履きではなくサンダル。初めの頃は歩きにくかったが、そのうちに慣れてしまった。
正面玄関に向かおうとしたところで、急にざわざわと騒がしくなった。隣のクラスのホームルームが終わったらしい。楊ぜんは足を速める。
しかし、その甲斐もなく、後ろから気持ちのいいのびのびとした声が響いた。
「よーぜーんっ!」
ため息ついて覚悟を決めて楊ぜんは振りかえる。
「先に帰るでないよ。ちょっとくらい待っていてくれても良いではないか」
コートに中途半端に袖を通しながら、ぱたぱたと小さな影が走りよってくる。太公望だ。
「もっと長くかかるかと思ったんですよ」
言いながらも楊ぜんは、太公望のかばんを持ってやる。そこで太公望は漸くコートをちゃんと着込んだ。それでも背の低い彼に指定のコートは大きすぎて袖がかなり余ってしまっている。
「だからおぬしは見切りをつけるのが早すぎるのだ。5分も待ってなかったではないか」
すねたように言いながら太公望は楊ぜんからかばんを取り返した。
「待ってたって生徒会の仕事があるかもしれないし」
太公望は学級委員だ。本人はいやいややらされていると言っているが、仕事はきちっとこなすし先生や生徒からの信頼も厚い。2年生になったらきっと生徒会長になるのだろう。本人はそれもいやいやなるのだろうが、頼まれると断れないらしい。
「生徒会は水曜日だっておぬし知っておるだろう? 別に文化祭とか大きな行事があるわけじゃないし、今は水曜日だけだ」
「そんなの知りません」
もちろん知っていたけれど、楊ぜんはとぼける。
「とにかく寒いから一緒に帰ろう」
マフラーまできゅっと巻いて太公望は言った。
二人とも帰宅部。部活には入っていない。
「どんな理屈ですか」
「二人だとあったかいよ」
「人前でそういうことするの、嫌ですからね」
「違うよ。心があったかいのだ」
のほほんと太公望はつぶやく。
自分の勘違いに楊ぜんはかぁっと身体が熱くなった。
太公望と楊ぜんは恋人同士だ。
高校ではじめて知り合った。クラスが違うから直接話す機会は滅多になかったけれど、二人とも学校では有名人で、お互いにその存在は知っていた。容姿端麗、頭脳明晰、その上運動神経も抜群の楊ぜんと、その楊ぜんを抑えていつも学年トップの成績を誇る太公望。当然のように楊ぜんは太公望をライバル視していた。その太公望に告白されたのが文化祭の前夜祭。頭が莫迦になってしまったようで、太公望が何を言っているのか良くわからなかった。
男同士だからと突っぱねて、せめて友達としてといわれて、それならばと頷いた。
クリスマスに呼び出されて、小さな公園でキスをした。楊ぜんとしてはなし崩し的に恋人と言うポジションを押し付けられてしまったような気もする。でも、太公望から言わせると、クリスマスの呼び出しに応じた時点で楊ぜんの心は決まっていたはずだと言うのだ。
そんな気もするし、うまく太公望に騙されている気もする。
そして、2月には恋人になってから、おそらくはじめての恋人同士のイベントがある。
「のぉ、楊ぜん。最近、女子たちがそわそわしておるであろう?」
学校を出て、駅へと向かう帰り道。おもむろに太公望はしゃべりだす。
「で、おぬし、何か気づかぬか?」
「いいえ、何も」
にこりと微笑んで楊ぜんははぐらかす。
とたん、太公望は世にも悲しそうな顔をしたので、楊ぜんは罪悪感に胸がぐさりと痛くなった。
「わからぬかのぉ」
ちらりと上目遣いで太公望は楊ぜんを見上げる。その視線が、すこし教室にいた女子達とかぶって見えた。それに気づけば少しだけ太公望が可愛く見える。
「えっと、バレンタインディ……ですか?」
仕方なく楊ぜんは答えた。
「そう、それなのだ。わしは甘いものが好きだし。楽しみだのぉ」
太公望はにこにこして言うが、自分からチョコレートをねだるなんて。楊ぜんにはちょっと信じられない。
「師叔は結構もてるんじゃないですか、女子からたくさんもらえますよ」
「そうでもないよ」
「僕は糖尿病になりそうなほどいただくので、良かったら師叔食べてください」
さりげなくそういうと、太公望はちょっと表情を曇らせる。
「おぬしからはくれぬのか」
「僕は男ですよ」
「わしは本命から本命チョコを貰いたいのだ」
楊ぜんは心の中で小さく息をつく。もちろん、太公望が欲しいと言うならあげたい。せっかくの恋人としてのイベントなのだ。楊ぜんだって出来る限り恋人らしくしてあげたいとは思う。だから、あげたいのは確かだけれど、しかし。
「この時期に男がチョコレートを買うなんて恥ずかしくて出来ません」
しゅんとしてしまった太公望に、またもや心が痛くなる。でも百貨店の特設会場のバレンタインコーナーで女性の波に埋もれながらチョコレートを買うのも、この時期だけ大々的に可愛らしく整えられた製菓コーナーで手作りチョコセットを買うことも、どちらも楊ぜんには出来そうにない。
かといって、ただの板チョコやポッキーで済ますのは恋人としてのプライドが許さない。
何故、恋人になってはじめてのちゃんとしたイベントがよりにもよってバレンタインディなのか。
太公望を喜ばせることの出来ない自分が、楊ぜんはとても悲しかった。
☆
楊ぜんが家に帰ると珍しく師匠がいた。
師匠と言うのは、楊ぜんの養い親で、正しく言うと叔父にあたる人だ。でも楊ぜんの母の一番下の弟である師匠は、叔父さんと言うには申し訳なくなるくらい、まだ若い。それに、剣道の道場もやっていて楊ぜんも子供のころはそこで稽古をつけてもらったことから、いまだに師匠と呼んでいる。
「あれ、師匠。この時間はまだ道場じゃないんですか」
優しそうな外見に似合わず、師匠は稽古となると厳しい。親戚とはいえ師弟関係だからと、道場に通っている間は楊ぜんにも敬語を使わせた。だから、やめてしまった今でも、敬語で話す癖は治らない。
「インフルエンザで皆倒れたそうだ」
「最近の子は軟弱ですね」
分類上は最近の子である楊ぜんは、そういってうふふと笑った。
「おまえも、気をつけなさい」
師匠は夕飯の材料を買出ししてきたところらしく、ジャガイモやらたまねぎやらを台所のテーブルに並べながら静かに注意する。
「僕は大丈夫ですよ」
楊ぜんはそれを見ながら、今日の夕飯はカレーだろうかシチューだろうかと考えた。
「最近学校はどうだ?」
「どうって、普通ですよ」
まさか男の子の恋人ができましたとはいえない。
「前に良く話していた……太公望君には追いつけそうなのか」
ちょうど思い浮かべていたところに太公望の名前が出てきて、どきりとした。前夜祭以来、家では太公望のことは話しづらくなってしまったが、その前はいつも成績で負けるのが悔しくて、しょっちゅうその話をしていたのだ。
「次の定期考査では抜きますよ」
にこっと楊ぜんは笑ってみせる。その意気込みは本当だ。恋人になったからといって、手加減などする気はない。
「ほどほどにな、楊ぜん。学校は勉強だけする場所じゃないから」
「何言ってるんですか、師匠」
話の雲行きが読めなくなって、楊ぜんはきょとんとした。
「おまえ、その……好きな子はいるのか」
ちょっと逡巡してから、師匠は口を開く。
「なっ、そんなっ。そんな人いないですよ!」
不意打ちに顔が熱くなる。真っ先に太公望の顔が思い浮かんだのが自分でも衝撃だった。何となくなってしまったような恋人でも、どうやら楊ぜんはちゃんと太公望のことが好きらしい。
「そうか……」
師匠はちょっとさびしそうに微笑む。
「羽目を外し過ぎないようにな」
「いませんってば!」
楊ぜんは慌てて自分の部屋に逃げ帰った。
制服を脱いで私服に着替える。
師匠との会話のせいで、別れ際の太公望の悲しそうな顔が頭から離れない。勉強しようとしても本を読もうとしても、滅多にやらないPSの電源を入れてみても、ちっとも気分が乗らない。何も手につかない。
ただ、胸の奥がずきずき痛い。
ベッドに横になって、寝てしまおうとしてもより胸の奥のずきずきを意識してしまうだけだった。
落ち着かない。
ばたんと楊ぜんは起き上がった。
私服のコートを着て、財布の中身を確かめてからかばんをつかむ。
台所の横をすり抜けざま、出かけてきますと師匠に声をかけた。
外に出るとひやりと寒い。
買うのなんて一瞬だ。行ってみれば案外簡単に買えるものかもしれない。売り子だっていちいち客の顔なんか覚えてないだろう。
クラスメートに見られたくなかったから、電車を何本か乗り継いでいく百貨店に目星をつけた。それに近所のスーパーなんかで買いたくはない。楊ぜんは本命の恋人なのだ。
ドアが閉まる寸前の電車に飛び乗って、ドアの近くの手すりにもたれた。窓にうっすら映った自分の顔はなんだかひどく不安そうな顔をしている。何してるんだろう。何をしにいくんだろう。やっぱり、買いに行くのなんてやめたほうが良いんじゃないかと思い始めたとき、電車は音もなく走り出した。
良く乗る私鉄の風景が、普段と全く違って見える。
さっさと着いて欲しいと考え、その一方で二度とつかなければいいと思った。
たかが、チョコレート一つなのに。
百貨店はなかなか歴史のあるもので、外観にも不思議な威圧感がある。楊ぜんは何食わぬ顔で中に入り、エスカレーターで2階に上った。チョコレートを売っているのは6階の特設会場だけれど、それだけのためにわざわざここまで来たんじゃないと自分に言い訳したかった。
本当は買いたいものがあって、チョコレートなんてそのついでなのだ。せっかく来たのだし、あんなに欲しそうにしてたから、ついでに買ってあげることにしたのだ。
7階の書店で、たいして欲しくもない参考書を買い、5階の紳士服売り場をぐるっと一周して、結局そこでは何も買わなかった。そうだ、せっかくだから電気屋も寄ろう。携帯をそろそろ機種変したいし、最近CDプレイヤーの調子もおかしい。
でもその前にチョコレート。逃げ出したい気持ちを抑えて。
特設会場はすぐに見つかった。と言うよりも6階でおりたとたんにバレンタインディ一色だった。そして想像以上にごった返していた。目に映るのは皆女性。本命のチョコレートを真剣に選ぶ女子高生や、会社で配るらしい義理チョコを大量に買い込むOLたち。世界が違う。楊ぜんは逃げ出したくなった。
それでも、楊ぜんは何とかチョコレートを買おうと人ごみの中に入ってはいったのだ。でも駄目だった。あまりの人の多さにめまいがしそうだったし、楊ぜんが男だと気づくとちらりと這わされる驚きや好奇心の混じった視線に気がついてしまえば、とてもその場にはいられない。無論、それは、最近では男の子でもチョコレートを買うものかしら、とか、女の兄弟に無理やり買うように頼まれたのかしらとか、そんな他意のないものではあったのだけれど、楊ぜんはそれを妙に敏感に感じ取ってしまう。
この男の子、男にチョコレートを贈るのね。同性愛者なんだわ。
楊ぜんには視線の一つ一つがそんな意味に感じられて、たまらずにその場を逃げ出した。
太公望のことは好きだけれど、自分が女よりも男が好きだと認められるほど、楊ぜんは覚悟が出来ていない。太公望のことは好きだけれど、それは偶々で、太公望だけ特別で、女の子も好きになれるんだと信じていたい。誤解なんだと叫びたい。
百貨店を出るとひやりと冷たい。日が大分傾いていた。負け犬みたいにのろのろと家路に着く。電気屋による気力など、残っていなかった。
「あれ〜? 楊ぜんじゃない」
そのとき、ぽんと肩をたたかれた。振り向くとみつ編みの女の子がにこにこと笑っている。
「蝉玉君」
蝉玉は太公望とも楊ぜんともクラスは違うが、生徒会のメンバーで太公望と仲がいい。楊ぜんもそれで何となく知り合った。裏表のないはっきりした性格で、女の子だけれど甘えたところがないのが気に入っている。彼女の唯一つの欠点は、変な男と付き合っていると言うことだ。別に悪い男と言う意味ではなくて顔が変なのだ。
「あんたが、元気なさそうなのって珍しいじゃん。どうしたの?」
人懐っこそうに蝉玉は尋ねる。
「別にそんなことないよ。ちょっと欲しかったものがあったんだけどいいのが見つからなくて買えなかったんだ」
「ふーん。まぁ私もそんな感じ。バレンタインディにハニーに手作りチョコ贈ろうと思ってんだけど、欲しかった銘柄がなかったの。チョコレートって素材で味が決まっちゃうでしょ。愛しのハニーにはやっぱり最高のものを贈りたいじゃない?」
そういってにこりと笑う。
「じゃあ、これから別の店によるのかい?」
あの人ごみを何度も体験しようとは、女の子はなかなか体力があるなと楊ぜんは思った。しかし、蝉玉はあははと笑う。
「違う違う。この百貨店の製菓コーナー結構種類そろってるもん。ここでなかったらきっと他のところでも売ってないと思うのよね。だから、ネットで通販しようと思って。まだバレンタインまでには日にちもあるしね」
楊ぜんはきょとんとした。
「え、チョコレートってネットで買えるの?」
「買えるわよぉ。もう、何だって買えちゃうんだから。楊ぜん、パソコン持ってないの?」
「持ってるけどあんまり使わない」
「あはは。駄目よ。活用しなくちゃ」
私、これからバイトだからと蝉玉は手を振って、赤から青に変わった信号を渡った。楊ぜんも少し愉快な気持ちになって手を振りかえした。
インターネットなんて、考えもしなかったけれど。これなら師叔にチョコレート贈れるかもしれない。
next.
novel.
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