若菜抄 <壱>
そのとき、伏羲は疲れ果てていた。
なにしろ奥さんの竜吉公主はものすごい美人だが病弱で、夫婦らしいことなど結婚してから一度もない。義理の弟の燃燈道人はとんでもないシスコンで、伏羲が屋敷によるたびに嫌な顔をして、姉さまはご病気だ身体が弱いのだから自重しろとのたまう始末で、枕を交わすどころか、二人っきりで話すら出来ないのだ。せっかくの美人をお嫁に貰っても、これじゃどうしようもない。
しかたがなく大貴族趙公明の妹に手を出したら、これが貴族の娘かと思うほどの品のなさ。うっかり見てしまったご面相は、見ているこちらが哀れになるほどのものだった。
それならばと貴女と評判のジョカの元を訪れると、これがどうしようもなくプライドが高い。ジョカの顔を立てて通ってはいるもののもういい加減うんざりだ。
わし、最高に女運悪いのかも……
伏羲は現世のしがらみに疲れ果てていたのだ。
しかし、ではいっそ俗世を離れて僧になってしまおうかと考えるにはまだ伏羲は若すぎた。
早い話が、可愛い女の子といちゃいちゃしたかったのである。
できれば妲己ちゃんみたいな可愛い子がよいのぉ〜。伏羲は大胆にも帝――つまり自分の父――の妻である妲己のことを考えてにやりと笑った。妲己は義理の母親になるわけだが、父の帝よりも伏羲のほうがまだ年が近いくらいに若く美しい。しかも、自分を生んですぐなくなったという母親にそっくりだというので、伏羲は興味深々だったのだ。
こんなに女運が悪いと、いっそ妥協なんてものはしたくなくなる。
もちろん顔は妲己並みの最高の美人。うるさい弟や身内はいないほうがいい。顔ばかりでなく品もよくなければならないし、無論教養もなければ。だが、自分の教養の深さを鼻にかけているような女は可愛くない。強い女よりは可憐で儚さのある少女然としたタイプが好みだ。
伏羲は自分の想像にうんうんと一人で頷き、次の瞬間深く深くため息をついた。
そんなおなご、おるわけないか。
そこまで完璧な女性を妻にしようと思ったら、子供のころから教育でもして自分好みの女に育てるしかないだろう。そんなのとても不可能だ。
世の中上手くはゆかぬのぉ〜。
悟ったように結論を出し、伏羲はぶらぶらと来た道を戻る。
日ごろのストレスがたたったのか、伏羲は体調を崩し寺に治療に来ていたのだった。茂れる森は凛と冷たく、針葉樹の香りがする。
偶には都会の喧騒を離れてみるのも良いものだ。
伏羲は深呼吸をし、心を落ち着けて日ごろの煩悩を振り落とすかのように首を振った。
さて、ぼちぼち寺にでも帰るかのぉ。
従者を置いてこっそり忍んで出てきてしまったのだ。そろそろ心配しているかもしれない。
足を速めようとすると、どこからか笑い声が聞こえた。きゃあきゃあとはしゃぐ女性の声だ。
ぴたっと伏羲は立ち止まる。
このような場所にも美女がおるやも。さっきの悟りはどこへやら。むくむくと期待が頭をもたげた。生垣にぴたりと寄り添い、葉の隙間を見つけてそっと覗く。少女が子供を遊ばせているようだ。
どれどれ美人かのぉ。
じぃっと少女を見つめていると、ちらりと顔が見えた。長い黒髪はややぱさついている。愛嬌のある顔立ちだがそばかすが目立つ。そう位の高い貴族の娘ではなさそうだ。女官をしているのだろう。
やはりこのような寂れた場所には、それにふさわしいおなごしかおらぬものか。
いささかがっかりし興味はうせたものの伏羲は何となく目を離しづらく、少女と子供をぼんやりと眺めていた。
走り回る子供を少女が追いかける。なかなか活発な子供らしくすばしっこくて、少女は息を切らしており少々哀れだった。
「楊ぜん様いけませんわ! 花を折っては」
「どうして? おばあさまに見せて差し上げるの。おばあさまはこのお花が大好きでしょう?」
「ああ、だからダメなんですよ。お花を折ったら奥様はとても悲しまれますよ」
かわいらしい声があたりに響く。不意に子供が振り向いた。
どきりとするくらい綺麗な子供だった。
年のころは10歳くらいだろうか。思わず触れてみたくなるような柔らかで艶のある、深い湖の底のような色の髪。染み一つない新雪のような白い肌。大きくてきらきらと輝く、夕日が落ちて夜が来る寸前の空の色を写したかのような薄紫の瞳。そして、その顔立ちはどこか、太公望の義母にあたる妲己を思い起こさせた。
この子は将来凄い美人になるだろう。今だってこんなに美しいのだから、ひょっとしたら妲己以上に美しくなるだろう。
ぎゅうっと胸をつかまれたような気がして伏羲は苦しくなった。
あの子供が欲しい。どうしても。
自分好みに妻を育てるという先ほどの思い付きが、急に現実味を帯びたものになった。
寺に戻って聞いてみれば、その子供は妲己の遠縁に当たる子供のようだった。そして母をなくし父とは縁が薄いため祖母の家に引き取られているのだという。
妲己と血のつながっている子供。そう聞いただけで伏羲は余計に楊ぜんが欲しくなった。
いてもたってもいられなくなってとうとう翌日には従者を連れて正式に楊ぜんのいる屋敷を訪れた。
開口一番。楊ぜんを妻にしたいといいだした伏羲に楊ぜんの祖母に当たる人物は、上品な顔をわずかにしかめ困惑顔で答えた。
「年寄りをからかうのはおやめください。楊ぜんはまだやっと10歳になったばかりで、結婚などとても早すぎます。あの子は同じ年頃の子供と比べても幼いくらいですから」
「なにも今結婚して欲しいといっているわけではないのだ。せめて約束だけでも、してもらえぬだろうか」
伏羲があまりに真剣に頼み込むので、楊ぜんの祖母は困り果てたように重たい口を開いた。
「実はね。伏羲様。この子は男の子なのです。妻にさしあげることは出来ないのですよ」
伏羲はぽかんと口を開けたまま固まった。
「生まれたのが男の子だなんて知れたら、夫の本妻に呪い殺されてしまうと娘が嫌がりましてね。その本妻という方が実際恐ろしい方で、娘もずいぶん苦労しましてね。せめてもう少し大きくなるまでは女の子ということにしておこうと」
楊ぜんの祖母の話を聞きながら伏羲はじっとりと絶望が心の中を満たしていくのを感じていた。
やっと運命の人に出会えたと思ったのに。この結末はどうだろう。
しかし、はいそうですかそれではしかたありませんねと引いてしまうには、楊ぜんは美しすぎたし妲己に似すぎていた。あの美しい顔を毎日眺めているだけでも、自分の心はずいぶんと癒されるだろう。
それに自分ならば楊ぜんの後ろ盾になってやることが出来るはずだ。性別を偽って暮らす必要もなくなる。
それならば、と伏羲は切り出した。
「せめて、楊ぜんを養子にいただくことはできぬでしょうか。実はわしにはまだ子供がおらぬのです」
この提案に、楊ぜんの祖母はちょっとばかり心を揺らめかせたようだが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「あまりにも、恐れ多いことでございます」
その後も伏羲はたびたび楊ぜんのいる屋敷を訪れては祖母を口説いたのだが、祖母の返事はいつも似たようなものだった。年よりは頭が固いと終いには伏羲は腹を立てるようになった。それでも祖母の返事はかわらない。
未練をたっぷり残したままやがて伏羲は帰京することとなった。
久々に帰った都は、妙に懐かしい感じがした。照り返す日の光の暑さも、澱んだような空気も何もかもが懐かしい。伏羲は真っ先に竜吉公主の元へ向かった。
久々に目にする竜吉公主はやはり美しかった。流れるような黒髪に白皙の面。自分の妻であるはずのこの女に指一本も触れさせてもらえぬとは、腹立たしい。そもそも竜吉公主は今の状態をどう思っているのだろう。少しは燃燈をいさめてくれても良いはずではないか。恨み言の一つもいってやりたいものだ。
しかし挨拶もそこそこに伏羲は燃燈道人に連れ出されてしまった。
「もう具合はいいのか王亦」
なんだかんだ言って、長い付き合いの燃燈道人は気心の知れた友人で、しきりに伏羲を幼名で呼びたがる。
「まぁのぉ。っていうかおぬし、夫婦の逢瀬を邪魔するでないよ」
「お前は大丈夫でも姉さまは身体が弱いんだ。無理をさせるな」
「無理なのはおぬしであろう」
話をしながら二人は余興に碁を打ち始める。実は燃燈道人はそう碁が上手くもないのだが、そこのところは伏羲が心得ていて、気づかれぬように最初互角で戦っておきながら後半を大差で打ち負かすといういささか意地の悪い打ち方で、日ごろのウサを晴らしていた。燃燈道人は、燃燈道人で気づいていないから、それはそれで楽しそうだ。
「そういえば、王亦、楽しそうだな」
不意に燃燈道人がぽつりと言ったので、伏羲は日ごろの意地悪がついにばれたのかとどきりとした。
「ビーナスにジョカに……また新しく愛人でも出来たのか」
「……おぬしよく知っておるのぉ」
さすがに気まずくて伏羲は、視線をそらす。
「おまえは目立つからな。なんでもすぐにうわさが立つ。気をつけるんだな」
腕組みし、碁盤から目を離さずに燃燈道人は釘を刺した。
「むぅ。わかっておるよ」
伏羲は小さく頷く。
「で、今度は誰だ」
「愛人ではないよ。まだ子供だしそれに男の子だ」
「おまえは本当になんでもありだな!」
燃燈道人が露骨に眉をひそめたので伏羲は慌てて首を振った。
「愛人ではないといっておろう? ただちょっと可愛そうな境遇の子供なのだ。養子にしようとおもったのだが、なかなか聞いてもらえぬ」
「なぜ、そんなにその子供に肩入れする?」
伏羲はちょっと迷ってから口を開いた。
「妲己に似ておるのだ」
「妲己か……。おまえが妲己にあこがれるのは単なるマザーコンプレックスだ。自分の生母が妲己に似ていると聞いたから母親を重ねて甘えたいだけだ。そうでもなければあんなに美しい姉さまを妻にしておきながら別に愛人を持つはずがない!」
おぬしにはいわれとうないわ。
言い切った燃燈道人に伏羲は小さな声で反発した。が、燃燈道人は聞いていない。
「よく考えてみろ王亦。姉さまほど美しく完璧な女性がこの世に他に存在しているか。いや、いるはずがない! だいたいお前は姉さまをないがしろにしすぎているとは思わないのか!」
ないがしろにしているつもりはない。燃燈道人がうるさくて近づけないだけだ。
だがこうなってしまっては、あとは燃燈道人に好きなだけしゃべらせるしか開放への道はない。言葉で言っても無駄なので、伏羲は碁のほうで早々に決着をつけてしまうことにした。
難しい局面になると燃燈道人もさすがに無口になる。一気に勝負をつけて碁盤を片付けようとした伏羲を燃燈道人が止めた。
「このままにしておいてくれ。この局面をもう一度考えてみたい」
根がまじめな男だ。考えるといったら本当に半日は丸ごと考えているだろう。しかも集中力もたいしたものだから多少の物音も耳に入らないに違いない。
これ幸いと燃燈道人を置いて部屋を出ようとして伏羲はふと気がついた。
これはチャンスやも。
抜き足差し足で部屋を抜け出し、期待に胸を膨らませて目指すはもちろん竜吉公主の部屋だ。
今こそ本当の夫婦に。
伏羲の頭にはそれしかない。
そっと忍び込むと、竜吉公主はなにやら書き物をしているようだった。香を焚きしめた薄紫の品の良い紙に、細く優美な女文字がすらすらと記されていく。小さな衣擦れの音にはっと驚いたように竜吉公主は顔を上げた。
「おお、伏羲。待っておったぞ」
たおやかな声で、竜吉公主はそういった。
「おぬしは、私よりも燃燈とばかり仲が良いからのぉ。もう一生着てはくれぬと思うておった」
思いがけぬ歓迎の言葉に伏羲は顔をほころばせる。
「わしのほうこそ、いつも燃燈が邪魔をするのはおぬしの差し金とばかり思っておった」
「酷い男じゃ。私がそのようなこと、するわけなかろう?」
「では公主。わしが嫌いで避けておったわけではないのだな」
伏羲は竜吉公主の着物に手をかけ、そのままぐいっと引き寄せた。
鼻先がくっつくほど近くでじっと見つめあう。
「おぬしこそ、ずいぶんたくさんの恋人がおるようじゃのぅ」
からかうように竜吉公主は笑う。その高慢さですら、魅力の一つと思えてくるから不思議だ。
「おぬしに逢えぬ辛さを忘れるためにそれだけの人数が必要だったのだ。でも今はおぬしがここにおる。そうであろう?」
凛として美しい。最高の女性はここにおったではないか。
心を震わすような感動とともに伏羲は考える。
二つの影が、ゆっくりと重なった。
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