若菜抄  <弐>



 燃燈道人のあしらい方を覚え、竜吉公主との逢瀬を重ねるようになると伏羲の生活は一転してばら色のものとなった。ジョカのプライドの高さを多めに見ることも出来るようになり、ビーナスにはさすがに逢うというのは遠慮したいものだが、品のいい着物や小物などを見繕って従者に届けさせたりもした。小さな恋ならいくつもあったし、伏羲はさながら花から花へと飛び回る優雅な蝶のようであった。
 私生活が華やげば仕事にも自然と力が入るようになる。朝廷でも伏羲の活躍は目覚しいものだった。
 そしてその反面、伏羲にあれだけの衝撃を与えた楊ぜんとの出会いは、偶にあの子はどうしておるだろうかと懐かしむだけのものとなっていった。原色の絵の具をぶちまけた極彩色の夢のような現実の中で、儚い楊ぜんの思い出はゆっくりとかすんでいった。
 季節はめぐり、京の都にもちらほらと雪の舞い散る季節に、その知らせは伏羲の耳に届いた。
 楊ぜんの祖母にあたる人が、雪の寒さに耐え切れずに世を去ったのだ。
 後ろ盾を失った楊ぜんは縁の薄いという父のところへ引き取られるという。本妻やその子供たちとの間でずいぶん肩身の狭い思いをするだろうという噂を聞き、伏羲は急にいてもたってもいられなくなった。あの幼いながらも美しい顔立ちが頭の中をよぎった。幸せそうに笑っていた子供が今は涙に暮れているのかと思えば、哀れさが心を動かした。
 伏羲が再び楊ぜんを引き取ろうと決意するまで、そう時間はかからなかった。
 御者を従え、再び出向いた北山は雪空のせいかしんと静まり返り、空気は重く伏羲の身体を包む。無論生垣の向こうにはしゃぐ女子供の声など存在しない。ただ、ひそかにすすり泣くような音が聞こえ、いっそう哀れだった。
 ゆるりと現れた伏羲に女官達は驚き、戸惑い、困惑していた。誰もがこの夏に起きた楊ぜんの結婚騒動など、浮気な伏羲の気まぐれだと思い込んでいたのだ。
「今一度、楊ぜんを養子にいただきたい」
 伏羲がそう頼み込んだとき、そこにはもう今は亡き女主人のように伏羲の申し出をきっぱりと断れるような人間などいなかった。ただ、困惑した顔をお互いに見合わせ、「楊ぜん様は父君が引き取るという約束になっております」と小さく繰り返すだけだ。その表情の中にも、どうせ父君のところに引き取られたところで、楊ぜんが肩身の狭い思いをするのは目に見えているのだから、今をときめく伏羲に引き取られたほうがずっといいのではないかという期待が見え隠れしている。
「ならば楊ぜん自身のことだ。楊ぜん本人に決めさせよう」
 埒の明かない女官達を振り切り伏羲はずんずんと奥へと歩いてゆく。これには女官達も驚いて慌てて伏羲を止めにかかった。
「お待ちください伏羲様!」
「楊ぜん様は疲れて寝ておいでなのです。たった一人のおばあさまを亡くされて泣きつかれて眠っておいでなのです。今はそっとしておいてさしあげてくださいませ!」
「しかし、そういつまでも泣いて暮らしておるわけにも行くまい。父君に引き取られては、楊ぜんはますます泣き暮らす羽目になるかも知れぬぞ」
 女官が鼻自ろんだところを、伏羲は気にも留めずすたすたと歩いてゆく。
 一方、この騒ぎで泣き疲れて寝ていたはずの楊ぜんはさすがに起きてしまった。何が起こったのかとそっと御簾をあげると、見覚えのない若い男が目の前に立っていた。後ろではいつも楊ぜんの世話をしてくれる見知った女官達がおろおろとしている。男は楊ぜんをじっと見つめている。怖い人なのだろうかと、楊ぜんは身をすくめる。やがて男は抱きすくめるように楊ぜんに手を伸ばす。
「おいで、楊ぜん。今日からおぬしはわしと暮らすのだ」
 その言葉に、祖母がなくなってからというもの毎日のように自分は父に引き取られるのだといわれ続けていた楊ぜんはやっと安心したような気分になった。
「お父様ですか?」
 そういわれて男――伏羲は笑う。
「そうだのぉ。それではいかにも若いお父様だと思わぬか」
 そういわれても子供の楊ぜんには大人の年齢など良くわからない。楊ぜんにとって大人などちょっと若いかうーんと年をとっているかのどちらかしかない。
「わしと一緒に来るであろう? 楊ぜん」
「はい。お父様」
 伏羲の優しげな笑みにひかれて、楊ぜんはこくんと頷いた。楊ぜんが父に引き取られると決まってからというもの女官達は盛んに楊ぜんを哀れんだものだが、今の楊ぜんにはそれが不思議に思えた。
 この人は怖くない。とても綺麗な目をしているもの。今までに見たこともないくらいのとても綺麗な青い色。
「では決まりだ。今日から楊ぜんはわしの屋敷で暮らす」
 伏羲は楊ぜんを抱き上げると宣言する。女官達はほとんど泣き出しそうになりながら伏羲を止めようとした。
「伏羲様。そんな! これから旦那様もいらっしゃるというのに。私達、怒られてしまいますわ!」
「なに、祖母の遺言があったとでもうそをつけばよかろう。それで無理やりわしが連れて行ってしまったと。どうせろくにここを訪れたこともないであろうに、それで引き下がるよ。わしについてきたいものは着いてくるが良い」
 伏羲はそういうと、楊ぜんをつれ外に用意してある車にさっさと乗ってしまった。
「どうする? 誰も来ぬのか?」
 そう言ってにやりと笑う。
「ああ、もう」
 一番身近で楊ぜんの世話をしていた女官が慌てて車に乗ったところで、車は京を目指し動き出した。

 実際にそばにおいて育ててみると、伏羲は楊ぜんが可愛くて可愛くて仕方がなかった。未だ庭にいるすずめの子を追い掛け回したりと、幼く見える一面もあるが、ふとした発言など聡明さを垣間見せることもあり、伏羲は楊ぜんを教育するのに夢中になった。
 生い立ちのせいか、楊ぜんには子供特有のふてぶてしさのようなものが少しもなく、遠慮することも知っている大人びた一面もあった。そこがまた、伏羲に哀れさを誘うのだった。
 自分の字をお手本に、字を教え、歌の詠み方を教え、時には碁などの嗜みも教えた。楊ぜんはいちいちくるくる動く真剣な瞳で応じ、伏羲のすることを大変上手に真似して見せた。
 女の子の格好があまりにも愛くるしいので、伏羲はなかなか楊ぜんを男として育てられずにいた。
「お兄様は今日はずっと楊ぜんのそばにいてくださいますか?」
 伏羲の服の袖をつかんでは、丸い瞳で楊ぜんはたずねる。子供心に伏羲が本当の父ではないと察したのか楊ぜんは伏羲のことをお兄様と呼んで慕っていた。朝起きると真っ先に楊ぜんはそれを尋ねる。そして伏羲の返答しだいで楊ぜんの一日の気分が決まる。
 仕事に行くときはまだ良いが、女の元へ通うときなど、一体どうして判ってしまうのか楊ぜんにしては珍しく行かないでくださいと袖にすがって駄々をこねることもあった。
「楊ぜんはお兄様が一番好きなのに、お兄様は楊ぜんが一番ではないのですね」
「何をいうのか。無論、楊ぜんが一番可愛いよ」
「ではどうして行ってしまうのですか」
「のぉ、楊ぜん。大人同士の付き合いには、一見無駄に見えることでもきちんとしておかないと後々面倒になることがあるのだ。わしが今行くのは、面倒ごとで楊ぜんと一緒にいる時間がなくなるのを防ぐためだよ。わかるであろう?」
 そういって諭すと、楊ぜんは未だ心残りながらも、仕方なく伏羲の袖を離す。
「早く帰ってきてくださいますか?」
「もちろん」
 伏羲はにこりと笑って楊ぜんの頭を撫でる。
 万事がその調子だから、伏羲はだんだん女の元に通っても泊まってゆくということがなくなった。
 そして、口さがない宮廷すずめたちは、伏羲が屋敷に愛人を囲っていて、今はその女に夢中らしいと噂し始めた。そして、その噂に、伏羲もまた楊ぜんを理想の妻として育てたいという欲求が強くなっていった。
 屋敷にいるときは片時もそばを放さず、寝るときは一緒に眠った。戯れに唇を吸うことすらあった。楊ぜんはまだ幼く、それが当たり前にあることのように思っていて、少しも疑問を抱かなかった。
 ただ時折女官達が、伏羲様はいささか楊ぜん様を可愛がりすぎるのではないかと不安そうにささやきあっていた。

 そんな中、伏羲の本妻である竜吉公主が妊娠していることがわかった。
 もともと身体の弱い竜吉公主にとって出産が命がけになることは判りきっていた。さすがの伏羲も楊ぜんと遊んでばかりいることは出来ず、足しげく竜吉公主の元へ通い、しまいにはほとんど泊り込むようになっていった。伏羲と離れるのを嫌がる楊ぜんも、どういうわけかこの件に関してはおとなしく伏羲の言うことを聞いていた。ただ、時折伏羲が楊ぜんの元に帰るととても嬉しそうな顔を見せるだけで。
 もともと嫌いあっていたというわけでもなく、ただ足が遠のいていただけの伏羲は竜吉公主の顔を見るたびに、より愛情が深まって行くのを感じていた。妊娠した竜吉公主はより一層美しく感じられ、なぜ自分はずっとこの女性を放っておいたのかと酷く残念に感じた。
 竜吉公主の手を握り伏羲は耳元でささやく。
「おぬしのために飛び切りの祈祷師を呼ぶからのぉ」
「おぬしは燃燈に負けず心配性じゃな。私はすっかり体調が良いというのに」
 竜吉公主は苦笑して答える。
「しかし、無理をしてはならぬぞ」
「わかっておるよ」
「今のおぬしは、今までわしが会ってきた女性の中で一番美しいよ」
 すると、竜吉公主はなんともいえないあいまいな笑みを浮かべ静かにつぶやいた。
「たとえ、嘘でも嬉しいよ」
「嘘なものか」
 竜吉公主は何も言わず、ただ微笑んでいた。
 いよいよ産み月が迫ると、伏羲は約束どおり評判の祈祷師を呼び、安産を願って祈祷をさせた。
 恐れていたほど竜吉公主は体調を崩すこともなく、月日は順調に流れ、すべてが上手くいくように思えた。
 ただ、とある年寄りの祈祷師の漏らした一言が小骨のように伏羲の胸に突き刺さった。
「これはいけませんね」
「なぜだ? 公主も体調はいいといっておるのに」
「そうでしょうか、私には炎が見えます。嫉妬に妬かれた女の生霊が。これは、あちらの方角か」
 そういって祈祷師が指差した方向に伏羲は一つだけ心当たりがあった。六条。ジョカの屋敷の方角でもある。
 あのプライドばかり高い女が嫉妬などに身をやつしたりするものだろうか。そんなものは学のない女のするものだと鼻先で笑いそうな気もするが。
 他の祈祷師は問題ないといっておるし。
 やがて竜吉公主は無事に男の子を出産した。母子ともに健康でなにも問題は内容にみえたから、伏羲は年寄りの祈祷師のたわごとなどすっかり忘れてしまった。子供は可愛かったし、妻はいとしかった。
「これからはもう、他の女のことなど考えもせぬわしになるよ」
 久々に枕を並べ、伏羲は竜吉公主にささやいた。
「そうじゃな。おぬしのたわごとを、偶には信じてみるのもよいかものぅ」
 しかしその夜異変は起こった。
 部屋の空気は重く息苦しく、伏羲は何度も寝返りを打った。うつらうつらと浅い眠りにつき、ふと目を覚ますと金縛りのように身体が動かない。
 頭の中に声が響いた。
 ――あな悔しや、伏羲様。わらわを忘れ給うたか
 ジョカ?
 動けない中で何か影のようなものがうごめく気配を感じた。
 ――この女さえおらねば、わらわをたずねてくださろうものを。あな憎らしや憎らしや。
 やめよ。何をする気だ。
 うごめく影は揺らめきながら目指す獲物を探し出す。
 ――子供など。女など。死んでしまえばよいものを
 やめよ!
 不意にぱっと金縛りが解けた。伏羲は急いでわが子を抱きかかえた。いきなり乱暴に抱きかかえられた赤ん坊は驚いてわっと泣き出した。その声に漸く伏羲はほっと息をつく。
「夢か……」
 しかし、伏羲の隣では妻が事切れていたのだった。

next.

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