若菜抄 <参>
幸せの絶頂にあっただけに、伏羲の竜吉公主を失ったことに対する悲しみは深かった。
あの時、自分が竜吉公主ではなく子供を抱きかかえたことが、妻と子の運命を分けたような気がして気がめいっていた。そしてまた、いい加減うんざりしていたとはいえ、一度でも愛したはずのジョカが生霊となって自分の妻を殺したことにも打ちのめされていた。
葬儀は盛大に取り仕切った。屋敷は竜吉公主を失ったことの悲しみですすり泣きにあふれていた。子供も母を恋しがってよく泣いた。それがまた哀れだった。
「なあ、王亦。なぜ姉さまのような方が死ななければならないのだろうな」
しとしとと軒からおちる雨を見上げながら燃燈道人が口を開く。
「すまぬ」
うつむいて伏羲は答えた。
「おまえのせいではない」
燃燈道人は強い口調でそういった。
「子供はこの屋敷で育てることになるだろう。だが、姉さまが亡くなってもお前とは義兄弟だ」
「すまぬ」
ふっと燃燈道人は笑った。
「お前がそんな調子だと、こちらの調子まで狂うな。しかし……お前もそれだけ姉さまを愛していたのだ」
「ああ……愛しておったよ。とても」
顔を上げると伏羲の頬を、一筋涙が伝った。
四十九日を過ぎてから、伏羲は楊ぜんの待つ屋敷に戻った。未だ悲しみの癒えない伏羲には目に映る景色も皆、色あせて白茶けて見える。いっそ、寺にこもって一生竜吉公主のために経でも読んですごそうかと考えたりもした。
屋敷を目にすると泣き出したいような気持ちになった。
しかし伏羲を迎えに姿を見せた楊ぜんを見た瞬間に、乾いた心に清流が流れ込んだ。その流れは一気に押し寄せて、伏羲を翻弄し、すべてを洗い流してゆくようだった。
「お帰りなさい。お兄様」
静かに楊ぜんは言った。痛みを含んだような笑みで伏羲を迎えた。すらりと背が伸びて、美しい髪もずいぶんと長くなっていた。あどけなさの代わりに誘うような色香が備わっていた。
もう随分楊ぜんを放っておいたような気がする。しかし、抱き寄せればぎゅっと抱きついてくるしぐさは昔のままだ。そのアンバランスさが愛しくもあり切なくもある。
「最後におぬしの顔を見たのが、もう随分と昔のような気がするのぉ」
楊ぜんの首筋に顔をうずめて伏羲はささやいた。
「はい。お兄様とお会いできなくてとてもさびしかったのです。今度はどれくらいここにいられるのですか」
「もうずぅっと、楊ぜんと一緒だよ」
「本当ですか」
ぱっと身を離して楊ぜんは伏羲の顔を覗き込んだ。
「お兄様がいらっしゃらない間、ずっと碁の特訓をしていたのです。もう、置石がなくてもお兄様に勝てるかもしれませんよ」
「ほぉ、それは楽しみだのぉ」
伏羲は微笑む。
「楊ぜん様、伏羲様はお疲れですよ。無理を言ってはなりません」
女官が慌てて楊ぜんをいさめるが、伏羲はこれを止めていった。
「良いよ。どれ一局対戦願おうか」
姿かたちは随分と美しくなったが、中身は変わらんのぉ。頭の中で伏羲は苦笑する。そんな伏羲の様子に楊ぜんが気づくはずもなく、久々に兄と慕う伏羲に甘えようと楊ぜんは上機嫌だった。
「お兄様、僕が勝ちましたらお願いがございます」
「ほぅ。何が欲しいのだ。新しい着物か、それとも……」
「ものではありません」
憤慨したように楊ぜんは言う。
「では、どうしてほしいのだ?」
「久々にお兄様の琴の音が聴きたいのです」
「ほぅ……琴とな……」
左手で碁石を弄びながら伏羲はにやりと笑った。
「よし判った。おぬしが勝ったらわしが琴を弾こう。しかしわしが勝ったらおぬしが琴を弾くのだ」
「そんな……僕はまだお兄様にお聞かせするほどの腕はありません」
楊ぜんの抗議に伏羲はしれっとした顔で返した。
「なに。おぬしが勝てばよいだけの話よ」
こうして始まった勝負は否が応でも真剣なものとなった。少なくとも楊ぜんは真剣そのもので、一手一手慎重に考えては石を置く。
こやつ、いささかまじめすぎるのぉ。教科書どおりは手が読みやすいというのに。
対する伏羲はかなり余裕で、考え込む楊ぜんを愛おしく眺めつつ、接戦を装っている。
しかし、勝ちは譲れない。琴くらいあとでいくらでも弾いてやろう。
やがて碁盤もすっかり埋まり、楊ぜんは悔しそうに宣言した。
「あー。負けてしまいました」
よほど自信があったと見え、目に見えてがっかりする楊ぜんに伏羲はにやりと笑って促した。
「ほれ、早く琴の準備を」
「許してください。お兄様。まだ本当に下手なのです」
上目使いに甘えた口調で楊ぜんが抗議する。
「よいから早く」
取り合ってくれない伏羲に楊ぜんはすねて口を尖らせた。
「完璧に弾けるようになってからお披露目したかったのに……」
そういいながらもあきらめたのか女官に和琴の準備をさせ、一つため息をつくと、楊ぜんは覚悟を決めたように楊ぜんはつっかえつっかえ琴を弾き始めた。
まだまだ鑑賞に値するレベルではないが、一生懸命に琴を弾く楊ぜんを見ているのは楽しい。それにスジは悪くない。もっと練習をすれば素晴らしい弾き手になるかもしれない。自分はもちろん、楊ぜんに教えるのにふさわしい技術は持っている。
金剛石の原石を目の前に、さてこれをどうやって磨いてやろうかと伏羲は考える。
一通り、弾き終わった楊ぜんに、伏羲は熱心に教え始めた。
日が落ちて弦が見えなくなるまで、二人はそうやって琴を弾いていた。
夜になると当たり前のように、楊ぜんが寄り添ってきて二人で一緒に眠った。
「お兄様、なにかお話をしてください」
そういえば、楊ぜんを引き取ってすぐの頃には、楊ぜんに寝物語などしながらこうして二人で一緒に眠っていたのだった。まだ一年もたたない前のことがずっと昔のことのように感じられる。
「何の話が良い?」
伏羲は楊ぜんを抱き寄せてその瞳を覗き込んだ。あどけなかった子供が美しく成長しようとしている。すでにつぼみは膨らんでいて美しい花が予想されるのに、いまだ花開かない。もどかしくもあり、じれったくもあり、切なくもある。
「お兄様のお話が良いです。帝の御前で舞いを舞われたお話」
「よいよ」
そうして低く語り始めた伏羲の声に、楊ぜんはゆっくりと目を閉じたのだった。
楊ぜんが完全に眠ってしまうと、伏羲はそっと楊ぜんの髪を手櫛で梳く。色は違えど、まっすぐで滑らかな髪は竜吉公主を思い出させ、伏羲は一人涙した。
やがてゆっくりと二条の屋敷での日常がもどってきた。
楊ぜんは伏羲の書をお手本に字の練習をし、和歌を詠み、琴を習い、そして碁や双六をして伏羲と遊んだ。日を追うごとに楊ぜんが美しくなっていくような気がして、伏羲はまぶしかった。
季節は移ろい、夏が過ぎ秋が訪れ、やがて冬になった。
廻り、廻って伏羲が楊ぜんを引き取ってからすでに2年が経過していた。
そんなある日のこと。
「ねぇ、お兄様」
片付け損ねた白い碁石を弄び、ぼんやりと外の庭を眺めながら楊ぜんがぽつりと言った。
「僕は本当は男の子ですから、元服しなくちゃならないと女官たちが言うのですが」
伏羲は驚いた顔で、まじまじと楊ぜんを見つめた。ともに寝起きしておきながら、伏羲は楊ぜんが男だということをすっかり忘れ果てていた。
女だと思っていたわけではない。ただいつかは元服させなければならないなんてことが頭から抜け落ちていたのだ。
「おぬし……男になりたいのか……?」
驚きがさめると、痛いような寂しさが伏羲を襲った。
「え? 僕はもともと男なのだそうです。ただ、身を守るためには女の格好をしていたほうが、都合が良くて、でもお兄様のような立派な後見の方に恵まれて、もうその必要もないって」
楊ぜんはにこりと笑う。
「僕はお兄様のように立派な殿方になれるでしょうか」
それは、女の子の格好をさせていてもこれだけ美しいのだ。男の格好をしたら、多くの女が恋焦がれるような美しい少年になるだろう。
しかし、この不快感は何だろう。
楊ぜんを手に入れるのは自分でなければならない。
「まだ早いよ。楊ぜん」
「そうですか」
楊ぜんはあっさりと納得する。再び碁石を弄び始め、それから庭にいるすずめの声を真似て、誘うようにさえずった。小さなすずめは首をかしげ、興味深々楊ぜんを見つめる。
「ねぇ、お兄様。あの子こっちに来るでしょうか」
楊ぜんはすずめから目を離さずにささやく。
「捕まえたら飼ってもいいですか?」
しかし、伏羲はすずめなど見ていなかった。ただじっと楊ぜんを見つめていた。じっとすずめを見つめる大きな瞳。ほころんだ口元。白い頬。美しい美しい楊ぜん。抱きしめたら、接吻したら、どんな香りがすることだろう。
伏羲が一歩踏み出したところで、庭のすずめが驚いて逃げていった。
「あっ」
楊ぜんが悔しそうな声を上げる。
「だめですよ。お兄様。すずめが逃げてしまいました」
抗議とともに見上げた伏羲の瞳は笑っていなかった。楊ぜんは怖気づいたように伏羲を見る。
「お兄様?」
「違う」
ぽつりと伏羲は言った。
「違うよ。楊ぜん。お兄様ではない。わしのことは伏羲と呼ぶがいい」
「……伏羲……様?」
怪訝そうにつぶやいた楊ぜんの口元は、やがて何かを悟ったらしくわずかに振るえ、瞳はじわりと滲みだした涙にゆれた。
「どうして……? 僕のことがお嫌いになったのですか……だからもう、お兄様とは呼ばせていただけないのですか……」
「違うよ、楊ぜん」
伏羲は静かに首を振る。
「でも……それでしたらどうして……。何がいけなかったのですか」
すがるように伸ばされた楊ぜんの手首を伏羲はつかみ、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「何もいけなくはない。だがわしはおぬしの兄ではない。そうであろう? 楊ぜん」
「では、お父様と?」
「否」
伏羲はゆっくりと首を横に振った。おもむろに口を開く。
「おぬし、わしのことが好きか」
「はい。……そんな、今更。好きです。大好きですよ」
伏羲の意図がわからず、嫌われるかもしれないという恐れから、楊ぜんは必死に訴えた。
「では。おぬしわしの妻になるか」
今度は伏羲の言葉の意味が判らず、楊ぜんは固まった。いつの間にか強くつかまれていた手首の痛みに漸く意識が戻る。
「つ……ま……?」
「そうだ」
「でも……それは、女性が……」
困惑した顔の楊ぜんに伏羲は語りかける。
「そうだ。おぬしは男になど戻らずとも良い。ずっとわしが可愛がってやる。一番愛してやる。どうだ?」
「でも……」
いまだ是といわない楊ぜんにじれて、卑怯な台詞と十分意識しながら伏羲は言った。
「一人になるのは嫌であろう? 楊ぜん」
はっとして楊ぜんは伏羲を見た。伏羲に頼らなければ、すがらなければ、自分はなんの後ろ盾もないまま放り出されるのだ。ひとりぼっち。その言葉の重みが、全身にしみこんでゆく。目に涙を浮かべて楊ぜんは伏羲にすがりついた。
「嫌。嫌です! 伏羲様!」
「では、わしの妻になるな」
静かに伏羲が念を押す。
意味もわからず楊ぜんはこくりと頷いた。
next.
novel.
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