花散る里(二)



 満開の桜をぼんやりと見上げる。
 ほんとうに、散らんのぉ……
 薄紅の桜と青い空。こんな状況でも、気持ちがいい。太乙真人に今はまだ無理だといわれたのだが、そのまま歩いていけば現世へ帰れるような気がした。散歩のような気分で太公望は歩き出す。歩けども歩けども桜は咲き続ける。振り向けば桜、前を見ても桜、右も左も桜。
「どうしたものかのぉ」
 視界の隅に赤いものが動く。太公望は目を凝らした。楊ぜんが一人で鞠をついている。声をかけようとして太公望はやめた。わざわざ太乙真人の約束を破ることもない。そのまま去ろうとしたとき楊ぜんの手がそれた。鞠はころころと転がって、太公望の足元でとまった。太公望は鞠を拾い上げる。
 鞠を追いかけた楊ぜんが、太公望に気がついて驚いたように立ち止まった。
「なげるぞ」
 楊ぜんはこくんとうなずく。太公望はぽーんと弧を描くようにして鞠を投げた。鞠を手にした楊ぜんはしばらく鞠を見つめてそれから、
 ばしっ。
「いったいのぉ」
 思いっきり太公望めがけて投げつけた。顔面で受け止めた太公望はひりひりする頬を押さえる。楊ぜんは悪びれもせずにこにこしている。
「なんだ、おぬし。遊んで欲しいのか?」
 一瞬太乙真人との約束が頭をよぎったが、すぐに消え去った。楊ぜんは嬉しそうにこくんとうなずく。
「さっきみたいな強いのはなしだぞ。おぬしもこんな風に投げるのだ」
 ぽーんと太公望は鞠を投げた。
 ぽーんと楊ぜんは鞠を返す。
 ぽーん。ぽーん。太公望は楽しくなってきた。楊ぜんは飲み込みが早く動作もなかなか機敏だ。ちょっといぢわるして遠くに投げても必ず鞠をとる。くすくすわらいながら二人は鞠を投げあった。
 どれくらい時間がたったことだろう。ふたりの鞠つきは声にさえぎられ唐突に終わった。
「そこで何をしている」
 抑えてはいてもわずかに怒りと苛立ちを含んだ声。太乙真人の声よりも若干低い。
 楊ぜんは声に気がついたとたん鞠を放り出して、声のしたほうにぱたぱたと走った。
 狩衣の髪の長い男が立っていた。
「おまえは外のものだな。太乙にこの子に近寄るなといわれたはずではないのか」
 少女が男の長い髪をぐいぐいと引っ張り背伸びして何か言う。
「楊ぜん、お前は黙っていなさい」
「その子が一人で遊んでおったので、遊び相手になってやろうと思ったのだ」
 観念して太公望は言った。
「太乙の言葉を破ってか」
「一人で鞠を突いていたのだ。一緒に遊んでやるものはいないのか」
 太公望は男に問う。
「この子はこの春咲いたばかりの一番の若木だ。一番歳が近いのが太乙だ。だから彼が子のこの教育係をしている」
「その太乙は子供を放り出してどこへ行ったのだ」
「彼は彼で忙しい。だが、楊ぜんを一人にしておくのは確かにいただけないな。私から注意しておこう。私がこの子を送るから、君ももう部屋に帰りなさい」
 じっと成り行きを見守っていた楊ぜんは、男の胸にしがみついて何か言った。
 それに対して男が何か言う。今度は日本語ではなく、例の不思議な響きの言葉だったため、太公望には何を言っているのか判らなかった。
 しばらくのやり取りの後、楊ぜんは不満が残る顔でこくりと頷いた。
「何を話しておったのだ?」
「外のことが知りたいという」
「わしなら話してやれるぞ」
 太公望は意気込んだが、男は首を振った。
「駄目だ。この子はこの里の中でしか生きられない。外のことを知ることに意味はない」
「そのようなことなかろう」
 しかし、太公望が言葉を続ける前に男は言った。
「太公望。この子は神々に捧げる桜の花だ。神々の御許で無限の時を生きる。君たちの穢れた世界を知る必要などどこにもない」
「穢れてなど……」
 太公望は言いかけて口をつぐんだ。大気汚染、温暖化、工業廃棄物。穢れていないということは出来なかった。
「しかし、外の世界には楽しいことも美しいこともたくさんある」
 男は首を振った。
「すべてこの子には必要のないことだ、天上の世界にまさるものはない」
 楊ぜんは振り返り振り返り男につれられていってしまった。
 取り残された太公望は桜を見上げる。
 この春咲いたばかりの桜の若木か。桜の精とでもいうことだろうか。
 この中に楊ぜんの桜もあるのだろうか。

 部屋に戻ると食事が用意されていた。そういえば腹は減っているが空はまだ青い、時間を尋ねると時間という概念そのものがないという。しかし、外ではすでに日が落ちたころだと教えてくれた。ここでは日は沈まないし、雨も降らない。
 食事を終えるとごろりと横になる。
「変な世界だのぉ。わしは歓迎されざる客というわけか」
 食事を運んでくれた女房装束の女は太公望の質問をかわし、逃げるように去っていった。
「一週間くらいで帰れるというし、せいぜい桜でも楽しむしかないのぉ。もともと桜を見に来たのだしのぉ。ああ、でも桜たちには歓迎されておらんのか」
 いつの間にか太公望はうとうととしてしまい、何かの気配ではっと目覚めた。
 ごろりと身を起こして、気配のするほうを振り向くと、御簾の影からそっと楊ぜんがこちらをのぞきこんでいた。
 太公望は苦笑する。この子だけは、わしのことを歓迎してくれるようだ。
「どうしたのだ? こんなことにいることが知れたら、怒られるぞ」
 楊ぜんはちょっと首を引っ込めたが、立ち去る気はないようで、じっと太公望を見つめている。
 太公望は仕方なく苦笑して手招きした。
「しかたないのぉ。こっちへおいで」
 すると楊ぜんはひょこんと御簾の間から顔を出し、きょろきょろしながら太公望の前まで来てちょこんと座る。
「何の話が聞きたい?」
 楊ぜんが口を開いて何か言った。
「ああ、そうか。すまぬのぉ。おぬしの言葉はわしには聞き取れぬのだ。はいかいいえでこたえられる質問でないとだめだのぉ。楊ぜんは外の世界に興味があるのか?」
 楊ぜんはちょっと考えた後こくんと頷いた。
「そうだのぉ。まず外の世界には夜があるのだ。夜はわかるか?」
 楊ぜんは首を振る。
「真っ暗になるのだ」
 楊ぜんは首をかしげて何か言った。真っ暗というのがわからんのかのぉと太公望は考える。
「目を閉じてごらん」
 楊ぜんは素直に目を閉じる。
「それが夜だ」
 楊ぜんが今度は早口で何か言った。太公望はちょっと考える。
「真っ暗では怖いか?」
 楊ぜんはまた何か言う。違ったようだ。
「うーん。困る?」
 こくんと楊ぜんはうなずく。そしてまた何か言う。
「しかしな、街灯というものがあって辺りを照らしておるから本当は真っ暗ではない。うっすらと見える。電気もあるしのぉ」
 楊ぜんは首をかしげる。そして太公望のほうに身を乗り出してまた何か言った。
 うーん。と太公望は考える。楊ぜんに電気の明かりを理解してもらうにはどうしたらいいだろう。
「つまりな、道ごと家ごとに光の玉があるのだ」
 ぱっと、楊ぜんは目を輝かせた。
「見たいか?」
 こくんと頷く。
「そうだのぉ、おぬしにも見せてやれたらのぉ。おぬしなんぞ外の世界に出たらきっとびっくりしすぎて卒倒してしまうぞ」
 楊ぜんは子犬みたいに瞳をきらきらさせてじっと太公望の言葉を待っている。
 太公望はなんだかどきどきしてきた。楊ぜんははっとするほど綺麗な顔をして、どきりとするほどまっすぐにこちらを見つめてくる。
「のぉ、楊ぜん。おぬしは外に出たいか?」
 楊ぜんは驚いたような顔をして、それから困ったように首をかしげた。
「神々に捧げる桜の花か……のぉ楊ぜん、どういう意味なのだ?」
 楊ぜんは何か懸命に話してくれたが、太公望にはどうしても聞き取れない。
 やがて荒々しく御簾が上げられた。
 鋭い声とともに現れたのは太乙真人だった。楊ぜんはすっかりおびえて太公望の後ろに隠れた。
「太公望。これはどういうことだい? どうして楊ぜんがここにいるの?」
 腕組みして太乙真人はまくし立てる。負けじと太公望も口を開いた。
「どうして? それは教育係のおぬしが楊ぜんを放っておくからであろう?」
「私の仕事はこの子のお守りだけじゃない。それに君には楊ぜんに近づくなといっておいたはずだ」
「一人でずっと鞠遊びでは楊ぜんがわしのところにくるのも判るわ。仕事仕事というがこの子はおぬしらにとっても大事な子なのであろう?」
「そうさ。この春の大事な贄だ。本来君なんかが口を利いていいものじゃない。さあ、楊ぜん来るんだ」
 太乙真人はそういって無理やり楊ぜんの手をとる。
 太公望は耳を疑った。
「ちょっとまて、贄とは何だ。まさか生贄のことではあるまいな」
 太乙真人は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「君たちの言う、野蛮な捧げものではないよ。この子はいわば神の花嫁だ。穢れを知ってはいけない」
 そしてぐいぐいと楊ぜんを引っ張ってゆく。楊ぜんは太公望を振り返り振り返り何か言った。
「ちょっと待て、おぬしら楊ぜんをどうするのだ!」
「楊ぜんは神の御許で永遠を生き、われわれの里は常に春を謳歌する。この里は神々の里だといっただろう? 君は部外者なんだ。口を挟むな」
「楊ぜんを殺すのではあるまいな」
「殺す? われわれは決して死にはしない。君たち人間と一緒にするな」
 太乙真人が楊ぜんを連れ去ってからも太公望はしばらくぽかんとしていた。

 翌日、例の髪の長い男を見かけた太公望は思い切って声をかけた。
 あの太乙真人よりはこちらのほうが、話がわかりそうな気がしたからだ。
 男は太公望を見るなり眉をひそめた。
「君は昨日の……。夜中に楊ぜんを部屋に引き込んだと太乙が怒っていたが」
「楊ぜんがわしの部屋に来たのだ。無理やり追い返すことも出来まい?」
「むしろそうして欲しかったが」
「わしはフェミニストなのだ。これでも」
 悪びれずに太公望は言う。
「太公望君、われわれには男女の区別はないよ。楊ぜんのように若い者は女性を示し、ある程度の年齢になると男性を示す。同じように見えても、君たちとは違うのだ」
「そうなのか……」
 すでに混乱しきっていた頭にはもうそれほどの衝撃はなかったが、楊ぜんの美しさを思えばなんだか酷くもったいないような気がした。
「楊ぜんもいずれ男性になるのか」
「100年後か200年後には」
 太公望は笑う。
「それならわしはもう生きておらぬ。関係ないよ」
「そうか、君たちは儚いな」
 太公望は苦笑した。
「桜の精にそういわれるとは思わんかったよ」
「いや、われわれは精ではない。われわれは桜そのものだ」
 男がやんわりと正した。
「どういうことだ」
「君はここの桜を見ているだろう」
「おお、どれも立派で見事だのぉ」
「あの一つ一つが私たちだ。一人一人が自分の木を持っている」
「おぬしの桜もあの中にあるのか」
「ああ、楊ぜんの桜もある」
 太公望はまだ細い、でも素晴らしく美しい桜の木を想像した。
「桜が咲けば私たちは現れ、桜が散れば私たちは消える」
「永遠に咲き続けるために生贄を贈るのか?」
 男は一瞬ひやりとするような目で太公望を見た。
「太乙に聞いたのか」
 太公望はこくりと頷く。
「あのおしゃべりめ。ただし君の想像している生贄とわれわれの贄は違う」
「どう違うというのだ?」
「命を捧げるのではない、花をささげるのだよ。実際、贄にえらばれるのは名誉なことだ」
「贄にえらばれたらどうなるのだ?」
「神々の世界へ行く」
「ここも神々の世界ではなかったのか?」
「いや、厳密に言うとここは人間界と神の世界の中間にある。神々の世界では美しさも若さも幸福もすべてが永遠だ」
 大きく息をついて太公望は言った。
「楊ぜんはそこへ行きたいのかのぉ」
「そればかりは、判らないな。ただ、神の世界へ行く前におまえのような人間に出会えたのはあの子にとっても幸福だったのかもしれない」
 男はほんの少し優しい目で太公望を見た。
 それに勇気付けられて太公望は言った。
「のぉ、楊ぜんをちょっとだけでもそとに連れて行ってやることは出来ぬのか?」
「それは出来ない」
 男はきっぱりと言った。
「あの子はこの里をでては生きていけないんだ」
「そうか、楊ぜんに外の世界の話をしたよ。悪いことをしてしまったのぉ」
 男は少し考えてから言った。
「いや、話してやってくれないか。望む望まざるにかかわらずえらばれた贄だ。あの子が望むものはなんでも与えてやろう」
「太乙が怒るのではないか」
「そうだな。だが、自分の仕事もろくに出来ないようならば仕方がないがない」
「そうだ、おぬしの名前を教えてはくれぬか?」
「私は玉鼎真人という」

 玉鼎と分かれた後、太公望はしばらく桜の木々を眺めていた。
 見事な満開の桜。毎年捧げられる贄のおかげで、決して散ることのない桜。一本一本が人格を持ち、人間のように歩き回っている桜たち。
 ぎゅうっと何かが太公望に抱きついてきた。薄紅の袖がちらりと視界をよぎる。
「よーぜん!」
 やわらかいものに抱きつかれて太公望はどぎまぎする。そっと肩をつかんで引き離す。お目付け役の太乙真人はいない。
「また一人ぼっちなのかおぬし?」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「ったく太乙は何をやっておるのだ?」
 太公望があきれると楊ぜんはおかしそうにくすくす笑った。そこで太公望はある一つの考えに行き着く。
「まさかとは思うが……おぬし太乙をまいてきたのではあるまいな」
 声こそ聞こえなかったが楊ぜんは楽しそうにけらけら笑っている。
「いつもそんなことしておるのか?」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「太乙が嫌いなのか」
 今度は首を横に振る。太公望はちょっとばかり太乙真人が不憫になった。
「いたずらだのぉ〜」
 楊ぜんは何か言ってまた笑った。
「今さっき玉鼎とあってな。おぬしと話をしてもいいと言っておった」
 楊ぜんは目をきらきらさせて何か言う。
 太公望は思いついて言った。
「のぉ、楊ぜん。おぬしの桜はどこにあるのだ?」
 楊ぜんは嬉しそうに何か言って、ぎゅっと太公望の手をとった。柔らかい手に握られて、太公望がまたどぎまぎしている間に楊ぜんは走り出す。手を握られたままの太公望も一緒に走った。桜の森の奥へ奥へと楊ぜんは走り、もう自分がどこを走っているのか太公望がすっかりわからなくなったころ突然足を止めた。太公望は楊ぜんにぶつかりそうになりながら何とか止まった。
 すっと楊ぜんが指を刺す。指差す先に若い桜の木があった。枝も細いしまだそんなに背も高くない。それでもはっとするほど綺麗な桜だった。花びらが光るようにあふれていた。楊ぜんはゆっくりと桜に近づくとそっと手を伸ばす。そして、太公望が止めるまもなく、花の咲く枝をぽきっと折った。楊ぜんが枝を折ると同時に、楊ぜんの白い小指の先から鮮やかな赤い血が一筋流れた。
 楊ぜんは振り返るとそっと自分の枝を太公望の胸に挿す。そして無造作に血の出てしまった小指を唇で吸った。
 思わぬ贈り物に太公望はどぎまぎした。
「ありがとう、楊ぜん」
 楊ぜんは何か言ってにこりと微笑んだ。
「おぬしの言葉がわしに判ったらのぉ」
 太公望がつぶやくと、楊ぜんは太公望に向かって一生懸命に話し出す。時々おかしそうに笑って、でも真剣で、そしてきらきら瞳をかがやかせて。
 聞こえない言葉がもどかしい。楊ぜんのことを楊ぜんの口から聞きたいのに。
 自分が贄になることをどう考えているのか。
 何がおかしくてそんなに笑うのか。
 どうして小指を怪我してまで自分の枝をくれたのか。
 判らないのだ。おぬしがどんなに一生懸命言葉を紡いでも。
 太公望の表情が沈んでいくのを見て、不意に楊ぜんはぎゅっと太公望に抱きついた。耳元に口を近づけて何か言う。声は聞こえなくても、吐息は届く。
 たまらなくなって楊ぜんを抱きしめる。楊ぜんはきょとんとした顔をしたが、やがてくすくすと笑い出した。それでも離さないでいると、くすぐったそうに身じろぎする。そして、太公望が手を離したとたんぱっと身を翻して走っていってしまった。手の中に感触が残っている。やわらかい絹と、若木のような細い身体と。
 太公望は呆然と楊ぜんの後姿を見送った。
 子犬のようにまとわりついてくるくせに、次の瞬間にはいなくなってしまう。
 胸元には楊ぜんの桜。見上げれば満開の桜。不意に今までの行動をすべて桜たちに監視されていたような気分になって、太公望はあわててその場を離れた。

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